平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



下界には病気や災いのもととなる疫神や様々な化物である
魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこっており、
それらが
京へ入るのを防がねばなりませんでした。

四角四境祭(しかくしきょうさい)は、それらを追放するために、
大内裏の四隅と国の四方の境で行った祭祀です。

古来より渡来人によってもたらされていた陰陽道は、古代中国の思想で
我国には中国との交流が盛んになる5C末から6C初仏教と前後して
国家レベルで伝来します。
大宝元年(701)大宝律令が完成し律令国家ができた時、
中国のさまざまな制度を取り入れましたが、その中に陰陽五行をもとにして
天体観察、暦の作成、土地を占う卜筮(ぼくぜい)・相地、方位等の判断を
陰陽師に行わせる「陰陽寮」を設置しました。

陰陽道は道教、密教、神道等の影響を受け我国独自の発展を遂げていきます。
平安時代になると疫病や天変地異は、怨霊のしわざと考える御霊信仰が広まり
陰陽師は呪術的な仕事も引き受けるようになり、
皇族、貴族は陰陽道を生活の指針にするようになりました。

奈良時代、藤原四兄弟が西国から広がった疱瘡で相次いで亡くなったように、
平安京が都となり人口が増え、人や物の流通が盛んになると、
疫病は居住環境・衛生状態の悪い都にたちまち広がり人々を苦しめました。
そうした疫病から都を守るため様々な祭祀が行われました。

都に通じる山崎・逢坂・和迩(龍花)・大江では、陰陽師によって
外部から侵入する悪霊・疫病を祓う四堺(境)祭が行われ、
祭祀には陰陽寮の役人と勅使には滝口があてられました。

陰陽道により東北が鬼門とされてからも、古くから我国では
西北に黄泉の国があるとされ、不吉な方角と恐れられ、
丹波・山城国境の大江が四堺(境)祭の最も重要な祭場でした。
祭は日没から夜にかけて行われ、祭壇に供えられた酒、米、魚、貝、鮑、
塩等が、疫神にふるまわれ陰陽師が災厄を除く儀式を行い、
途中放した鶏の鳴き声で疫神を退散させ、都に入るのを防ぎました。

大内裏(宮城)の四隅で行われる「四角祭」の勅使には
蔵人所の役人があたりましたが、祭祀の進行は
四堺祭と同じようなものだったようです。

老の坂峠の首塚大明神

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山城と摂津の国境に建つ「従是東山城国(これより東山城の国」と刻んだ碑
国境付近に建つ関大明神社
 
◆『大江(枝)』京都市西京区老の坂峠、山城国・丹波国との国境、山陰道へ
◆『山崎』島本町山崎一丁目、山城国・摂津国の国境、山陽道へ
◆『逢坂』大津市大谷町(逢坂の関)山城国・近江国との国境、東山道へ
◆『和迩・龍花(華)関』大津市和迩、山城国・近江国との国境、北陸道へ
龍花(華)関は天安元年(857)に逢坂・大石とともに
近江国三関として新しく設けられた関。

上龍華村の畑山、栗原村(滋賀郡志賀町)の大畑の二ヶ所に関址の伝承がありますが、
交通路からみると上龍華の畑山の地が有力とみられます。





大津市上龍華

 滝口(京都御所清涼殿傍の滝口)

禁中警固や天皇を物の怪から守ることを任務とし、
清涼殿東庭にあった御溝水が落ちる所に詰所があったので滝口と呼ばれました。
淀川河口の渡辺の津を拠点とする渡辺党の武士の多くが
滝口となって
鳴弦にも従事しました。
「平家物語」巻五(文覚の荒行の事)に登場し源頼朝に挙兵を勧めた
文覚上人(遠藤盛遠)も渡辺党の出身で、源姓渡辺氏、
遠藤姓渡辺氏を総称して渡辺党という。
また芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁を祖とする斉藤氏も
滝口を出す氏で、巻十(横笛の事)の斉藤時頼(滝口入道)がいます。
『アクセス』
「大江・国境碑」 阪急桂駅より亀岡行京都バス「老の坂峠」下車徒歩10分
 老の坂トンネルすぐ手前(左)にある細い道を入ります。
「山崎・国境碑」JR「山崎」駅下車徒歩5分 「逢坂の関」京阪電車「大谷」駅下車徒歩5分
『参考資料』
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 「京都学への招待」角川書店   
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「滋賀県の地名」平凡社 井上満朗「平安京の風景」文英堂  「平安時代史事典」角川書店 

 


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