平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




嵯峨野にある祇王寺は白拍子祇王の哀しい物語を伝えています。

祇王は平清盛に寵愛され、西八条邸に囲われていましたが、
清盛の寵が白拍子仏御前に移り、母や妹の妓女とともに尼となって
祇王寺に隠れ住みました。やがて仏御前も尼となってこの庵を訪ね、
四人は仲良く念仏三昧の余生を送り往生を遂げたという。


平家全盛の頃、都で評判の高い祇王・祇女という白拍子の姉妹がいました。
白拍子は今様という当時の流行歌を謡い、舞を披露する女性です。
姉の祇王が清盛の目に留まり寵を受けたのが16歳の時、家に残された
母の刀自(とじ)と妹の祇女は、毎月多くのお金を贈られ、
一家はとても贅沢に暮らしていました。

三年の月日が過ぎた頃、仏御前という若い白拍子が舞を見てほしいと
西八条邸に現れました。呼びもしないのに押しかけて来た仏御前を
清盛は追い返そうとしますが、祇王の取りなしで対面できました。
ところが清盛は若くて美しい仏御前にすっかり心を奪われてしまい、
祇王は折角掴んだ自分の座を仏に奪われた形となり、
清盛の邸から退かねばならなくなりました。


♪萌え出るも枯るゝもおなじ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
(新しく芽ぶくのも、古く枯れゆく草も、所詮、野辺の草はみな同じなのです。
どちらにしても秋になると枯れ果て消えてしまいます。
人もまた同じです。
愛されていても、いずれは飽きられてしまうのでしょう。)

と祇王は障子に書き残し、西八条第を去っていきました。

翌年の春、清盛から嘆き悲しみの日を送る祇王に
仏御前を慰めるようとのお達しがきました。母に説得され、
心ならずも清盛の館に赴いた祇王に与えられたのは下座でした。
♪仏も昔は凡夫なり我等もついには仏なり 
いずれも仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ


(仏も昔は普通の人でした。私たちもいずれは悟りを開いて仏になれるはずです。
仏御前も私も仏になるべき本性を備えていますのに、分け隔てなさるのは、
まことに悲しいことです。)
と非情な清盛を前にして今様を謡い舞うと、
並み居る平家の人々は皆涙を流したといいます。

その後、人生の無常を感じた祇王母娘は尼となり、嵯峨野の奥に庵を結び
念仏生活に入りました。しばらくすると仏御前が
「自分もいずれ捨てられ、追い出される身の上」と
この庵に祇王を訪ね、
四人は念仏三昧の日を送ったといわれています。

祇王二十一歳、祇女十九歳、刀自四十五歳、仏御前十九歳の時です。



祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗です。
 
昔祇王寺の付近には、往生院という大寺がありました。
今も小倉山のところどころにみられる空地は、往生院の子院跡と考えられています。
平安時代末に法然上人の門弟
良鎮(りょうちん)上人によって
往生院は再興されましたが、中世以降荒廃し、
ささやかな尼寺として残り、
江戸時代になると、祇王・祇女の哀話が有名になり祇王寺と呼ばれました。

現在の建物は明治28年、祇王・祇女の話に感動した当時の京都府知事
北垣國道が嵯峨にある自分の別荘内の茶室を寄進し、これを本堂にしたもので、
寺院らしさがないのはこのためです。

門を入った境内には本堂があるだけです

苔の庭の向うに見えるのが本堂です
本堂中央には本尊の大日如来、左右に清盛と四人の木像が安置されています。


本堂背後の墓所には、祇王・祇女・母刀自・仏御前の墓があり、
その右隣には清盛の供養塔が祀られています。


祇王・祇女・母刀自・仏御前の墓は鎌倉時代の合葬墓で、高さ約3m、
往生院関係の遺物を後に墓として使用したようです。右側は平清盛の供養塔です。

境内の一角には、アツモリソウ・クマガイソウが栽培されています。

アツモリソウ
名の由来は、袋状の唇弁を持つ花の姿を
敦盛の背負った母衣に見立ててつけられています。
母衣(ほろ)とは、後方からの矢を防ぐ武具のことです。

クマガイソウ


祇(妓)王の故郷 (妓王寺・祇王井・妓王屋敷跡)   
『アクセス』
「祇王寺」 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32 京福電車嵐山駅下車 徒歩30分
または市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車約15分

『参考資料』
梅原猛「京都発見(1)」新潮社  竹村」俊則「昭和京都名所図会4」駿々堂 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「京の石造美術めぐり」京都新聞社
 
 


 








 


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