こういうのを大山鳴動鼠一匹・・・とでも呼ぶのでしょう。京都大学の入試問題が、まさに入試が行われている時間帯にヤフー知恵袋に投稿された事件は、一人の浪人生がつい出来心で犯したカンニングに過ぎなかったことが明らかになりつつあります。そのため、「京大が騒いで未成年者を逮捕させた」「京大の監督態勢こそ問題があったのではないか」といった抗議や苦情が京都大学に寄せられているようですが、確かに京都大学の今回の対応に問題がなかったとは言いませんが、同情すべきところもあり、上のような非難は結果論に過ぎないところもあります。
もし犯人が、掲示板にハンドルネームで投稿してもIPアドレスによって足がつく、といった初歩的なことすら知らないような純朴な浪人生ではなかったとしたら、どうだったか。ある愉快犯が、不特定多数の受験生に入試の時間帯にヤフー知恵袋を参照せよと予告し、受験生に扮して試験会場に潜り込ませた仲間を通じて問題を投稿させ、何等かの形で解答も投稿させた結果、掲示板に載った解答そっくの答案が続出していたとしたら、どうだったでしょうか。いやしくも京都大学の受験生ともあろう者がそんな危険を冒して同調するとも思えませんが、場合によっては入学試験やり直しの事態にもなりかねず、今回の罪状である「偽計業務妨害」にあたるような新手のサイバー犯罪だった可能性は否定できなかったわけです。特に、私も英語の問題の一つを見ましたが、機械翻訳にかけたような拙い英訳で、愉快犯に相応しい。
敢えて問題視するとすれば、石原都知事が指摘されていたように、世の中のメディア・リテラシーは進んでおり、韓国では組織的なカンニング事件を機に携帯電話を持ち込み禁止にしたように、「携帯の持ち込みを制限するなどの措置を講じなかった大学当事者の方が時代に遅れている」ということ、つまり京都大学の先生方をはじめとする私たちオトナの意識の後れが問題なのでしょう。監視の目がある試験会場で試験開始後5~11分という早さで投稿されたのは、カメラで試験問題の映像を外に待機している者に送ったからではないかと、さも複数犯説がまことしやかに解説されていましたが、どうやら本人は「机の下の股間に携帯電話を隠し、机に体を寄せて左手ですべて入力した」と、一人でやったことを供述しているようなのです。
今回、いろいろインターネットを探索していると「京大対策」というWikibooksのサイトを見つけました。これによると、
・・・(前略)・・・京大の問題は本学の学者・研究者養成という目的を反映してか、どの科目においても、簡単な問題を短時間で効率よく処理する力ではなく、比較的長い時間の中で、難解な課題をじっくり解く力・発想力・表現力・思考力といったものが求められていると言える。このような問題に対抗するには小手先のテクニックは通用しない。例えば国語なら安易な読解法に頼るのではなく、文章をじっくり読み理解するのみならず、本文に基づいて、作者の裏の考えまでも理解し、それに自らの理解を補ってわかりやすく表現する力、数学なら暗記した解法を組み合わせて解くのではなく、新しい視点で問題を見つめ数式の意味を多面的に見る発想力、誘導の無い問題を最初から最後まで自力で計画を立て解ききるという構想力、そしてそれらをわかりやすく採点者に伝える表現力、英語なら型どおりに語句や構文をとって訳すのではなく素材文の著者の全体主張を深く把握し自ら思考しつつ訳す力が求められる。・・・(中略)・・・京大の入試問題は、カリキュラムによって線引きされた、いわゆる“科目”の個別の学力だけでない教養や素養が広く求められる。すなわち京大の入試問題に対抗するには、多様な事象に興味を持ち文系・理系に関わらない広い教養を備え、付け焼刃の学習ではなく、日々の学習を地道に行い主体的にじっくり思考することを繰り返すという学問の王道を行くことが、遠回りであり、長い時間を要するが、もっとも確実な方法なのである。また、そのような学びの姿勢こそが京大入学後の学問の糧となろう。(後略)
と、長い引用になりましたが、京都大学の先生方は極めて真摯に入学試験を作成されていることが察せられます。そして殆どの受験生もまたこうした入試問題に対処するために極めて真摯に切磋琢磨しているわけで、こうした先生方と受験生との間の信頼関係を裏切るようなカンニング行為は、受験生を怒らせただけでなく、善意の先生方をも落胆させたことでしょう。それを、脇が甘いと言うのは勝手です。良くも悪くもそれが日本を代表する象牙の塔の実態なのではないかと思うわけです。私が同情すべきと言ったのは、この点です。
こうして、今回の一連の報道を見ていて思うのは、日本では飽くまで性善説に基づく受験制度への信任が厚いということでした。ご承知の通り、アメリカなどでは在学中のカリキュラムが盛り沢山で卒業を難しくしています。それが本来の大学教育の姿だと言われれば、その通りなのでしょう。それに対して日本の「入り」を難しくする大学受験制度を批判する声が多いわけですが、それにしても「いっせいのせ」で全国一斉にやらないと、秋田の国際教養大学のように所期の目的に反して、結局、人気を博して入学のための競争を煽るということになりかねません。受験制度を含む教育の問題は、将来の日本を背負う子供たちの問題、ひいては将来の日本の問題であり、十年一日どころか五十年、百年一日の現状を、しっかり議論すべきだと思います。
もし犯人が、掲示板にハンドルネームで投稿してもIPアドレスによって足がつく、といった初歩的なことすら知らないような純朴な浪人生ではなかったとしたら、どうだったか。ある愉快犯が、不特定多数の受験生に入試の時間帯にヤフー知恵袋を参照せよと予告し、受験生に扮して試験会場に潜り込ませた仲間を通じて問題を投稿させ、何等かの形で解答も投稿させた結果、掲示板に載った解答そっくの答案が続出していたとしたら、どうだったでしょうか。いやしくも京都大学の受験生ともあろう者がそんな危険を冒して同調するとも思えませんが、場合によっては入学試験やり直しの事態にもなりかねず、今回の罪状である「偽計業務妨害」にあたるような新手のサイバー犯罪だった可能性は否定できなかったわけです。特に、私も英語の問題の一つを見ましたが、機械翻訳にかけたような拙い英訳で、愉快犯に相応しい。
敢えて問題視するとすれば、石原都知事が指摘されていたように、世の中のメディア・リテラシーは進んでおり、韓国では組織的なカンニング事件を機に携帯電話を持ち込み禁止にしたように、「携帯の持ち込みを制限するなどの措置を講じなかった大学当事者の方が時代に遅れている」ということ、つまり京都大学の先生方をはじめとする私たちオトナの意識の後れが問題なのでしょう。監視の目がある試験会場で試験開始後5~11分という早さで投稿されたのは、カメラで試験問題の映像を外に待機している者に送ったからではないかと、さも複数犯説がまことしやかに解説されていましたが、どうやら本人は「机の下の股間に携帯電話を隠し、机に体を寄せて左手ですべて入力した」と、一人でやったことを供述しているようなのです。
今回、いろいろインターネットを探索していると「京大対策」というWikibooksのサイトを見つけました。これによると、
・・・(前略)・・・京大の問題は本学の学者・研究者養成という目的を反映してか、どの科目においても、簡単な問題を短時間で効率よく処理する力ではなく、比較的長い時間の中で、難解な課題をじっくり解く力・発想力・表現力・思考力といったものが求められていると言える。このような問題に対抗するには小手先のテクニックは通用しない。例えば国語なら安易な読解法に頼るのではなく、文章をじっくり読み理解するのみならず、本文に基づいて、作者の裏の考えまでも理解し、それに自らの理解を補ってわかりやすく表現する力、数学なら暗記した解法を組み合わせて解くのではなく、新しい視点で問題を見つめ数式の意味を多面的に見る発想力、誘導の無い問題を最初から最後まで自力で計画を立て解ききるという構想力、そしてそれらをわかりやすく採点者に伝える表現力、英語なら型どおりに語句や構文をとって訳すのではなく素材文の著者の全体主張を深く把握し自ら思考しつつ訳す力が求められる。・・・(中略)・・・京大の入試問題は、カリキュラムによって線引きされた、いわゆる“科目”の個別の学力だけでない教養や素養が広く求められる。すなわち京大の入試問題に対抗するには、多様な事象に興味を持ち文系・理系に関わらない広い教養を備え、付け焼刃の学習ではなく、日々の学習を地道に行い主体的にじっくり思考することを繰り返すという学問の王道を行くことが、遠回りであり、長い時間を要するが、もっとも確実な方法なのである。また、そのような学びの姿勢こそが京大入学後の学問の糧となろう。(後略)
と、長い引用になりましたが、京都大学の先生方は極めて真摯に入学試験を作成されていることが察せられます。そして殆どの受験生もまたこうした入試問題に対処するために極めて真摯に切磋琢磨しているわけで、こうした先生方と受験生との間の信頼関係を裏切るようなカンニング行為は、受験生を怒らせただけでなく、善意の先生方をも落胆させたことでしょう。それを、脇が甘いと言うのは勝手です。良くも悪くもそれが日本を代表する象牙の塔の実態なのではないかと思うわけです。私が同情すべきと言ったのは、この点です。
こうして、今回の一連の報道を見ていて思うのは、日本では飽くまで性善説に基づく受験制度への信任が厚いということでした。ご承知の通り、アメリカなどでは在学中のカリキュラムが盛り沢山で卒業を難しくしています。それが本来の大学教育の姿だと言われれば、その通りなのでしょう。それに対して日本の「入り」を難しくする大学受験制度を批判する声が多いわけですが、それにしても「いっせいのせ」で全国一斉にやらないと、秋田の国際教養大学のように所期の目的に反して、結局、人気を博して入学のための競争を煽るということになりかねません。受験制度を含む教育の問題は、将来の日本を背負う子供たちの問題、ひいては将来の日本の問題であり、十年一日どころか五十年、百年一日の現状を、しっかり議論すべきだと思います。