風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

戦艦武蔵

2015-03-09 23:17:50 | 日々の生活
 マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン氏が、フィリピン中部シブヤン海の海底で戦艦「武蔵」を発見したことを公表した3月3日以来、ツイッター上に次々と動画や静止画を投稿しています。呉市海事歴史科学館の戸高一成館長が映像を検証した結果、艦首の紋章や主砲の砲塔が抜けた穴などが「武蔵」の特徴に一致していること、また周辺で類似の艦船の沈没記録がないことから、戦艦「武蔵」にほぼ間違いないようです。終戦70年の因果でしょうか。
 長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している戦艦「大和」は、排水量7万3000トン、長さ263メートルで、生存者によると、東京駅の新幹線のホームが260メートルくらいでほぼ同じ長さのため、東京駅を見るたびに「大和」を思い出すのだそうです。東京駅の大きさの船というのですから、相当なものですが、戦艦「武蔵」もまた同じ大きさで、大和型戦艦の二番艦として知られ、太平洋戦争当時、世界最大級の戦艦でした。
 「武蔵」は、1944年10月のレイテ沖海戦で、米軍機の攻撃を受け、乗員約2400人中、猪口敏平艦長以下約1000人とともに海の藻屑と消えました。実は、この海戦当初、爆撃は「大和」と「武蔵」に対して五分五分に行われていたのが、いつしか「大和」3に対して「武蔵」7の割合で行われるようになり、「武蔵」に魚雷7~8本、爆弾10発ほどが命中し、速度が出なくなって落伍し、結果、沈没の憂き目にあったのは、「大和」の艦長の方が船の操艦が上手かったからだという話です。元帝国海軍少佐で「大和」副砲長だった深井俊之助氏によると、「大和」の艦長は、爆弾や魚雷を巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だったのに対し、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長らく陸上で教官をやっていて操艦に慣れていなかったため、爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう、と述べておられます。それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されていなかった、とも。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残った(翌年4月、所謂菊水1号作戦の水上特攻で沈没)というわけです。
 山本五十六元帥ほどの慧眼ではなくとも、現場でも、既に太平洋戦争開戦当初の真珠湾攻撃やマレー沖海戦で、世は航空機の時代となったことを悟っていたようで、大鑑巨砲主義という、日露戦争以来の帝国海軍の成功体験に殉じたのが、なんとも悲劇的でしたし、「武蔵」は旧帝国海軍が建造した最後の戦艦だったというのも、象徴的です。
 「武蔵」船体が沈没しているのは水深1000メートル地点だそうで、引き揚げるのは困難なようですが、70年の歳月を経て、私たちの目に触れたのが、慰めとなるのかどうか。戦争における過ちとともに、戦争そのものの過ちを、しみじみと感じさせる出来事です。
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