元プロレスラーのラッシャー木村さんが、腎不全による誤嚥性肺炎のため亡くなりました。享年68歳。
特別にラッシャー木村さんのファンだったわけではありませんが、国際プロレスの頃の活躍よりも、新日本参戦さらには全日本移籍の頃の憎めないキャラクターや、ショーをショーとして楽しむ、ちょっと牧歌的なところもあった当時のプロレスを象徴するような存在で、その雰囲気を懐かしみます。
プロレスも多様化し、その後は真剣勝負が隆盛を極めますが、そればかりと言うのはなんとなく息が詰まります。優勝劣敗は自然界の掟ですが、人間社会は自由競争や成果主義だけではない、共存の思想や芝居を楽しむ文化があります。
今の日本の社会の閉塞感は、成長が止まって、結果として、心の余裕がなくなってしまった荒涼感にあります。成長している時には、歩みに遅い早いがあったとしても、皆それぞれに成長している安心感、未来は今より豊かになれる期待感がありました。ところがいざ成長が止まってしまうと、僅かの後退も許せない、つい隣と見比べてしまい、ひがみやっかみ、他人の足を引っ張り、僅かの悪も見逃さないといった不寛容、必要以上の潔癖性が、社会から潤いを奪っているように思います。そんなぎすぎすとした世相を、ラッシャー木村さんは、どんな思いで眺めつつ、旅立たれて行かれたか。
特別にラッシャー木村さんのファンだったわけではありませんが、国際プロレスの頃の活躍よりも、新日本参戦さらには全日本移籍の頃の憎めないキャラクターや、ショーをショーとして楽しむ、ちょっと牧歌的なところもあった当時のプロレスを象徴するような存在で、その雰囲気を懐かしみます。
プロレスも多様化し、その後は真剣勝負が隆盛を極めますが、そればかりと言うのはなんとなく息が詰まります。優勝劣敗は自然界の掟ですが、人間社会は自由競争や成果主義だけではない、共存の思想や芝居を楽しむ文化があります。
今の日本の社会の閉塞感は、成長が止まって、結果として、心の余裕がなくなってしまった荒涼感にあります。成長している時には、歩みに遅い早いがあったとしても、皆それぞれに成長している安心感、未来は今より豊かになれる期待感がありました。ところがいざ成長が止まってしまうと、僅かの後退も許せない、つい隣と見比べてしまい、ひがみやっかみ、他人の足を引っ張り、僅かの悪も見逃さないといった不寛容、必要以上の潔癖性が、社会から潤いを奪っているように思います。そんなぎすぎすとした世相を、ラッシャー木村さんは、どんな思いで眺めつつ、旅立たれて行かれたか。
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