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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

東京五輪・閉幕

2021-08-09 12:36:41 | スポーツ・芸能好き
 戦略家のエドワード・ルトワック氏はかつて、「死力を尽くして戦った国は案外、戦争が終わったあと仲良くなる」というようなことを言われた。最近のことで言えば、日米関係がそうだし、米とベトナムもそうだ。逆に、中国共産党のように、国民党を前面に立てて日本と戦わせ、自らは漁夫の利を狙って身を隠すような小賢しい組織は、いざ中国大陸で政権を執ると、その統治の正統性を証明するために、歴史を捏造して恥じるところがないし、日本を貶めることにも余念がない。韓国に至っては、当時、日本の一部として共に戦った仲なのに、戦後、連合国の仲間入りを図ろうと画策して英米に却下されると、被害者ヅラして、何かと「強制された」と言い募るなど、歴史認識をこねくり回して過去をずるずると引き摺ることになる。こうした近隣諸国との関係はなかなか好転しそうにない。
 同様に、言うまでもないことだが、東京オリンピックで死力を尽くして戦った選手たちの、勝敗が決した後にお互いの健闘を称え合う姿は美しいと思う。オリンピック精神とまで称賛され、私も感情移入して大いに涙した(笑)。当事者だからこそ、その困難さを知るが故に、お互いに敬意を表する気持ちになるのだろう。SNSによる誹謗中傷が話題になったが、あれは他人たる周囲が囃し立てることで、当事者たちは(特定国であっても)至って冷静である。私たちは、当事者である選手たちに学ばなければならない。
 17日間の熱戦が終わった。どうでもいいことだが、私の会社は、混雑回避のために、オリンピックに合わせて今週一杯、全社一斉の夏休みとし、まるでオリンピックを応援せいと言わんばかりだった。いや、急かされるまでもなく、応援した。振り返れば、オリンピックの混雑解消に資するよう、私の会社は在宅勤務の実証実験を繰り返し、期せずしてコロナ禍にスムーズに対応した。言わばオリンピック狂騒曲とでも言わんばかりの、オリンピックに振り回された数年だった。私個人としても、いずれ老後の愉しみのためとは言え、数年前、早めに通訳案内士の資格を取って、この日に備えた。メディアにはボランティアの「おもてなし」を称賛する記事が溢れたが、私も喜んでその一部になる覚悟でいた(はずだったが、ズボラな私は、結局、何もしなかった)。
 以前からモヤモヤしていて、今回、開催するにあたっては明瞭に世論が割れて、それでもいざ始まってしまうと、選手たちには罪はないと人々が熱狂する、この一種の怪物のようなオリンピックとは一体、何なのか? という問いがあらためて突きつけられる。
 前々回のブログに書いたように、国旗を背負った選手たちの活躍を応援し、内外からの客人を迎え入れて経済を盛り上げるという、大きいことはいいことだ的な昭和な時代のノスタルジーがあろうが、そろそろ時代に合わせて決別すべきだろう。スケートボードやサーフィンのように新しく加わった競技を見ていると、そして、そこで悲壮感はなく楽しみながら躍動する10代の若い人たちを見ていると、その思いを強くする。他方で、世界大に広げて見れば、4年に一度の代理戦争としての役割は、基調としてなお色褪せることはなさそうだ。
 今回も、政治的な要素がそこかしこに散見された。権威主義国ベラルーシの選手が、コーチを批判したとして帰国指示が出たことに逆らって、ポーランドに亡命した。SNS時代のオリンピックに相応しく、ナショナリズムが絡んだ、選手に対する誹謗中傷が話題になった。とりわけ特定国が批判されたのは、国家の発展段階における特殊な成熟度の(つまり、国家統合のために演出されたナショナリズム高揚から派生する)問題と言うべきだろう。成熟度という意味では、お隣の国もまた、一部の人たちの動きとは言え、挙げて行けばキリがない数々の反日的な言動が、いちいち日本人の癇に障った。冒頭のルトワック氏は、これは隣国の国内問題だと喝破されていて、私もそう思うが、それによってお互いの表向きの国民感情がお互いから離れてしまい、外交上の制約条件になってしまうのは、実に勿体ない話である。そして、毎度のことながら、中国(の在米NY総領事館)は、開会式の中継で米NBCテレビが台湾を含まない中国の地図を画面上に映したとして抗議した。200を超える国・地域が参加し、その歴史的経験値や発展段階における立ち位置が異なる以上は、本当の熱戦よりはマシだとして、疑似戦争としての経験を共有し、ナショナリズムのガス抜きをし(あるいは健全なナショナリズムへと昇華し)、より相互尊重と国際的な連帯へと目を向けるようになるとすれば幸いであろう。五輪憲章では「国家間のメダル競争」が禁じられているにもかかわらず、日本をはじめとしてメダル獲得数をランキング形式で並べて国威発揚を煽ったのは、奇麗ごとだけでは済まない一面の現実であろう(が、いずれポリコレの刃が及ぶかも知れない 笑)。
 それでも、天下泰平の世であればまだしも、この戦時下とも言われるパンデミック下でわざわざやる意義があるのかという疑問は消えないが、オリンピックだけでなく、パンデミックという事態そのものの軽重を問う問題でもあって、簡単ではない。昨年、延期したのは止むを得なかったが、今年もコロナ禍を克服したとは言えない状況で、さらにデルタ株の蔓延に神経を尖らせながら、ぎりぎりの強行となった。この機を逃せば、これ以上の延期はあり得なかっただろう(あるとすれば、ブリスベン大会の次の2036年になってしまう)。そこで見直すべきは、オリンピックの原点としてのアマチュアリズムへの回帰である。
 象徴的だったのが、ゴルフの松山英樹選手の呟きだった。「オリンピックがすごい大会であることはわかります。でも、プロゴルファーにとってオリンピックって、どうなんでしょうか。よくわからないんです」
 ゴルフには四大大会がある。世界の強豪が集い、優勝すればステータスと多額の賞金を手にすることが出来る。ところがオリンピックのゴルフ競技ときたら、出場人数はメジャー大会の半分程度の60人に過ぎず、出場国が偏らないように各国4人までの制限があって、当然、その中にはメジャー大会で馴染みのない選手もいて、全体の競技レベルは低くなる。それでも松山選手がオリンピックでメダルを目指したのは、自国開催であり、しかも会場が自らに縁のある霞ケ関カンツリー倶楽部だったからだろう。
 テニスの大坂なおみ選手も同様で、メジャーで既に名声を確立してなお、自国開催だからこそ出場を望んでいることは本人が公言していた。野球における侍ジャパンの活躍には狂喜したが、出場したのは僅か6ヶ国で、中でも野球大国アメリカは3A中心のチーム編成であるのを知ると、なんだかやり切れなくなる。プロ選手にはプロ・スポーツの世界で活躍する場が与えられている。オリンピックはそうじゃない、普段余り浮かばれることがないスポーツを、4年に一度くらいは称揚する場でありたいものだと、スポーツ好きの(高校時代に地味な陸上をやっていた)私としては思う。それは、コマーシャリズムを極力排して、人間の肉体の限りない可能性に驚嘆し称賛するミニマリズムの機会であってよい。その価値を認められる程度の均衡点にまで規模を縮小するのも、止むを得ないように思う。
 こうしたパンデミックの困難な状況でも開催できるのは日本しかないという、海外からの感謝の声が一再ならず聞こえてきた。単純にお世辞とは思えない。男子柔道フランス代表(100kg超級銅メダル、混合団体金メダル)のテディ・リネール選手の言葉が心に響く。「日本のおかげでコロナを気にせずに試合ができた。五輪は全てのアスリートの夢なので、とても感謝している」 日本の政治や諸団体はさておいて、現場力の面目であろう。パンデミックに加え、真夏の猛暑や、更にはサイバー攻撃やテロの脅威にも晒されながら、17日間の競技をどうやら無事終えたようで、私たち見る者を楽しませてくれたことは、選手の活躍とともに、それを支えるボランティアや関係者の方々のご尽力の賜物であり、大いに労いたいと思う。
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