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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

G7雑感 中国に歪められる世界

2023-05-28 19:37:33 | 時事放談

 ロシアとウクライナによる戦争が一年を超え、世界が自由・民主主義国と、権威主義国と、そのいずれからも距離を置きたがるグローバルサウスという日和見(と敢えて言わせて貰う)のグループに分断される中で、G7がどのようなメッセージを発出するのか、それに対してG7を取り巻く利害関係者がどのような反応を示すのか、注目された。

 先ず、岸田首相の念願だった地元・ヒロシマ(地理的にとどまらない意味合いを込めて敢えてカタカナ表記する)での開催らしく、将来に向けて核兵器の廃絶を訴えた。共同声明「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」によくぞ漕ぎつけたものだと思うが、反核の市民団体からは不評で、「失敗」だったとこき下ろす声もあった。核保有国の米・英・仏に加え印も参加したG7で大胆な進展など期待できないことは織り込み済みだろう。それよりも、首脳たちが個別に資料館を視察し、被爆者と面会し、G7首脳が揃って原爆慰霊碑に献花し、戦没者を追悼する場面があったのは、日本ならではの貢献であり、快挙と言うべきだろう。

 このヒロシマでの開催に、ウクライナのゼレンスキー大統領が飛び入りで参加し(正確には、オンライン参加を対面参加に切り替え)、G7後半の話題をさらった(いや、そのための花道をわざわざ用意したと言うべきだろう)。2014年以来、米・英をはじめとして様々な支援を受けて来たとは言え、いくら所詮は資源大国でしかない、冷戦時代の装備が残るロシアの攻撃であれ、今なお持ち堪えているのは驚異的だが、これはNATOをはじめとする後方支援あってこそ。ヒロシマという地でのインドをはじめとするグローバルサウスとの対話は、ウクライナの存在感を示す良い機会だったことだろう。移動手段については当初、アメリカ軍機を使う予定だったが(当然であろう)、飛行出来るのが同盟国、友好国の上空になるなどの制限があり、かつ20時間以上かかることから、フランス機に切り替えたようだ。日本に到着してから(日本が用意したとは言え)ドイツBMW社製の防弾車に乗り、会場で最初に面談したのはイタリアとイギリスの首相という(このあたりは日経による)、毎度のことながら気配りの行き届いた訪問だった(微笑)。

 対中では、部分的であっても「デ・カップリング」というネガティブな表現は敬遠され、「デ・リスキング」で纏まった。誰もが巨大な市場の中国に依存し、一定程度の恩恵を受けつつも、一定程度のリスクをも意識する中では、当然の成り行きであろう。もとは3月にEU委員長が発した言葉で、4月にアメリカの安全保障担当大統領補佐官が続き、G7で決定的になった。「人類運命共同体」なる高邁な理想を掲げる中国が、明確に世界の「リスク」と見做されることは、さぞ心外だったことだろう。その中国によれば、G7は「中国を中傷し、内政に乱暴に干渉している」として、「強烈な不満と断固とした反対」を表明し、日本に「厳正な申し入れ」をしたという(時事による)。とばっちりを受けたのは垂大使だが、「中国が行動を改めない限り、G7として共通の懸念事項に言及するのは当然だ」と反論された。かねて垂大使のご発言には敬意を払って来たが、この毅然たる対応は天晴れと言うべきだろう。中国は都合の悪いときには決まって「内政干渉」だと、グローバルに説得力のあるとされる言い回しで誤魔化す(その根本をなす思想は異なるのだが)。惜しむらくは、日本からではなく駐中国日本国大使からの発言だったことだ。こうした重要な立場は、明確に(言うべきことは言うと言い放った首相や外務大臣など)日本国政府として発信すべきだろう。

 例えばアメリカのCHIPSs法やインフレ抑制法を見ると、あのアメリカが・・・と、隔世の感がある。1980年代後半に不当とも言える(発展途上の、と敢えて言う)日本の内政に干渉したアメリカだったが、今や当時の日本も顔負けの、否、むしろ国家資本主義の中国に対抗せざるを得ない状況に追い込まれ、なりふり構わぬ国内産業育成・保護の補助金行政を強行するのだ。あの、理念の共和国・アメリカが、である。これを、中国が歪めていると言わずして、何と言おう。それは、グローバルサウスに対しても同様であろう。「債務の罠」と呼ばれるが、中国自身は、首尾一貫して他国の内政には干渉しないが、冷徹に経済的な搾取(いわゆる新・植民地主義)を続けている。

 だからと言って、アメリカの行動を許容するものではない。ただ、アメリカ自体は、依然、西側と呼ばれる自由・民主主義世界では唯一と言ってよいほどの人口増加と経済の高成長を続けるが、さすがのアメリカを以てしても、相対的な地盤沈下によって、有志国と共同しなければ単独では対処できない事実に呆然とするだけである。

 問題はやはり中国である。

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プーチンの戦争から一年

2023-02-26 22:32:27 | 時事放談

 ロシアがウクライナに侵攻してから一年が経った。プーチンが言うところの「特別軍事作戦」はどう見ても「戦争」であって、戦争を知らない世代が殆どの現代にあっては衝撃的であり、その惨劇は新聞紙上の一面を賑々しく飾り立てて来た。しかし一年経てば、人道に対する脅威には心が痛むが、日常となる。

 この一年を回顧する特集記事の一つは、「逆流する世界」と書いた(TBSによる)。確かに「逆流する」と言いたい気持ちはよく分かるが、それは日米欧を中心とする西洋史観に立つ偏った見方に過ぎなくて、世界はなお歴史観という意味では跛行状態にあるのが現実だ。そして、パンデミックが世界を変えたわけではなく単に歴史の歯車を速めただけだと言われたように、プーチンの戦争もまた世界を変えたわけではなく歴史の歯車を速めただけだと言える。それは大雑把に言えば、世界が、先進国と言われて来た日米欧の西側諸国を中心とする自由・民主主義の第一世界と、ロシア・中国・イラン・北朝鮮などから成る権威主義の第二世界に加え、両者から距離を置き、両者から利益を得ようとする強かな第三世界に分かれつつあるという現実である。これ自体は、これまでも論じられて来たことだが、これまではかつてリー・クアンユーが語ったように第三世界は米・中の間で踏み絵を迫られたくないという消極的な意味合いが強かったのに対し、今や自律性を強めつつあることが新たな現実だと言える。国連総会でロシア非難決議に表れる通りの世界の分断である。

 私たちは、古代ギリシアの哲学に学び、人類は必ずしも進歩するわけではないと知りつつ、それでも近代の歴史に学び、歴史は進歩するという考え方に慣らされて来た。しかしそれは西洋を中心とする狭い世界の物語に過ぎない。確かに、リベラルな現代から振り返れば野蛮とも言える、ダーウィンの進化論に支えられて大国が小国を搾取して世界を牛耳ることを恥じない帝国主義の成れの果てに、二度の世界大戦を経験するという反省を踏まえて、戦争を違法化し、国際連盟に続き国際連合という、大国による権力政治と対極をなす国際的コミュニティを築き上げる知恵を身に着けたつもりになっていた。しかし、それは第二次大戦後の戦勝国たる西洋世界によって規定された平和の秩序に過ぎない。その中核をなす国連・安全保障理事会の常任理事国の中に、19世紀的な大国政治へのノスタルジーを捨て切れない中国やロシアが同居し、欧米がもたもたする間に、パワーバランスが中国や第三世界に傾きつつあり、ロシアに至っては、ソ連という帝国崩壊のルサンチマンを抱えて虎視眈々と復活を狙う始末だ。

 こうしてパンデミックに加えプーチンの戦争によって、西側・第一世界の民主主義のレジリエンスが問われている。

 そんな中で、もともとアングロサクソンのアメリカ嫌いのフランス人エマニュエル・トッド氏が、「この戦争は単なる軍事的な衝突ではなく実は価値観の戦争」でもあり、「西側の国は、アングロサクソン的な自由と民主主義が普遍的で正しいと考え」るのに対し、「ロシアは権威主義でありつつも、あらゆる文明や国家の特殊性を尊重するという考えが正しいと考え」ており、「中国、インド、中東やアフリカなど、このロシアの価値観のほうに共感する国は意外に多い」と語った上で、「世界が多極化し分断しても、それが不安定な世界だとは限りません。ロシアの言う『あらゆる文明、あらゆる国家がそれぞれのあり方で存在する権利を認める』世界が支持され、実現するなら、ロシアが勝者になると考えることもできるわけです」「米国が一国の覇権国家として存在し、無責任な行動をとる世界のほうがむしろ不安定化を招くでしょう。この状況は早々に終わらせるべきです。そのためには米国が自分の弱さを認めるしかない。そうしないと『終わり』は来ないのだと思います」と主張される(*)。

 その考え方自体は一考に値するが、だからと言って、ロシアの行動を正当化出来るわけではない。私はかねて氏の人口論には敬意を払って来たが、最近の氏は、民主主義を拡大解釈して政治制度を超えて経済的な平等をも含む社会的な観念として捉え、アメリカが民主主義を国是とするばかりに、その社会的分断を移民社会によるものではなく民主主義の後退と捉えるところを、苦々しく思っている。

 そんな氏と池上彰氏の対談を掲載するAERAは、日本の、とりわけ安倍長期政権で傷ついた日本の民主主義や立憲主義を悲観し、間接的に批判しているつもりになっているのだろうか。トッド氏がアメリカ嫌いのためにレンズを曇らせているように、朝日新聞系列も安倍嫌いのためにレンズを曇らせているように見える。そのために肝心の問題・・・戦後のリベラルな国際秩序が危機に瀕しているというのに、アメリカを中心に築き上げられて来たばかりに、的を外した議論がなされているように思えて仕方ない。問題はそこではない、と言いたいのだが・・・。

(*)「『中立』の立場で見るウクライナ戦争の背景とは?」https://dot.asahi.com/aera/2023022100040.html

   「ウクライナ戦争に勝者はいない『みんなが負ける戦』」https://dot.asahi.com/aera/2023022100058.html

   「ウクライナ戦争後の世界『米国の崩壊』もあり得る」https://dot.asahi.com/aera/2023022200058.html

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2022回顧⑤複合危機

2023-02-05 18:09:19 | 時事放談

 新年も既に一ヶ月が過ぎたというのに、昨年を回顧するのもなんだが、今に繋がる話として、今回までは続けたい(ダボス会議でのキーワードになったようだが、それ以前にタイトルを決めていた・・・とは言い訳がましいが、もはや陳腐かも 苦笑)。

 かつて小説家の有吉佐和子さんが公害問題を取り上げた『複合汚染』(1975年)がベストセラーになった。宮崎義一氏は『複合不況』(1992年)で、80年代半ば以降のバブル発生と崩壊のメカニズムを実証的に分析され、金融自由化の帰結として生じた金融部門の経営悪化にリードされて引き起こされた新しい不況であると論じられた。今は、「複合」危機とでも言えるような危機的な状況にあると言えるように思う。それを実感したのが2022年という年だった。

 トランプ政権において表面化した米中対立が深刻化する中で、世界は新型コロナ禍に見舞われていた。2022年はその3年目だが、当初、中国に生産を依存していたマスクや医療器具が入手困難になり、サプライチェーンの強靭化が叫ばれるようになり、経済安全保障への関心が高まっていたところだった。民主主義国と権威主義国の分断が深まったそのとき、主要国が財政を大きく毀損して、国家も国民も疲弊し、ヨーロッパ諸国は自らの資源に依存すると足下を見たロシアのプーチンは、バイデン大統領がアフガニスタンから撤退した半年後に、ウクライナに対して19世紀的な戦争を仕掛け(因みに2013年にオバマ大統領がアメリカは世界の警察官ではないと言い放った半年後に、プーチンはクリミアを併合した)、世界をエネルギー危機と食糧危機に晒した。その後、インフレが加速し、米国をはじめとする金融引き締めがドル高を招いて、その影響で貧しい国々が窮状に追い込まれている。

 これだけの危機に見舞われて、世界はよく持ち堪えているものだと思う。いや気息奄々なのかも知れない。日本でも物価がじりじり上がり、円安のせいで遅れて輸入物価も上がっている。

 こうして思うのは、「権力」なるものの魔力だ。イアン・ブレマー氏が率いるユーラシア・グループが発表した今年の十大リスクでは、「ならず者国家ロシア」が筆頭に、また、「最大化する習権力」が二番手に挙げられた。

 民主的平和論などと言われるのは、民主主義国では、多かれ少なかれ自由な言論が担保されたメディアと国民によって政府の暴走が止められると期待されるからだ。実際に、やりたい放題のアメリカでも、第二次大戦に参戦するときと同様、日米安保条約第5条があっても、国会の承認がなければ行動を起こせない。

 他方、中国では軍民融合などと言われるが、中国はいつも二番煎じで、冷戦後のアメリカの軍民統合に倣っただけのことではある(だから中国は、自分は悪くないと開き直る)。確かにアメリカでは当時、防衛予算を減らされる中で止むにやまれずスピンオン(民生技術の軍事転用)が進められ、更には1993年頃から戦略的にデュアルユース技術の開発が進められた。では、二番煎じの中国の何が問題か?・・・国家意思だと思う。現象として表れているのが2017年に施行された中国の「国家情報法」で、その第7条には「国民と組織は、法に基づいて国の情報活動に協力し、国の情報活動の秘密を守らなければならず・・・」とある。海外にいる留学生であろうが企業の駐在員であろうが、中国籍を捨てない限りスパイであることを求められる。これがあるから、華為は、今はもしかしたらあらぬ容疑でアメリカから締め出されつつあるかも知れないが、中国政府、いや端的に中国という国家を牛耳る中国共産党の指示によって、いつ豹変するか分かったものではない。TikTokにも同様のリスクがある。その根底には、アメリカの中国共産党に対する拭い切れない不信感があると思う。しかも中国は、人口減少が報じられたように(実際には数年前からとも言われるが、その真偽はさておき)、また政府の債務が異常に膨れ上がり、GDPの2割を占めると言われる不動産業もバブル崩壊寸前と言われるように、報道の自由がないから実体はよく分からないが、これまでのような成長は限界にぶち当たっており、中国共産党の統治の正当性に疑問符がつく。

 ロシアもまたプーチンとその一派というマフィアが牛耳る国家で、国際社会を大混乱に陥れてでも、自らの威信を守ることに執着している。

 そして、南北戦争以来とも言われるアメリカの社会的な分断によって、混乱が増幅しているところがある。

 こうして、そもそも世界の分断から起こった危機であるために、世界は結束できないでいる。今や、自由・民主主義の世界と、権威主義の世界(中国、ロシア、イラン、北朝鮮など)と、そのいずれからも距離を置き、双方から利益を引き出そうとする、その他大勢の第三の世界に分かれつつあることは、一般に認められるところだろう。ロシアの行動を非難する国連総会の決議でも、中国の人権状況を非難する国連・人権理事会の決議でも、そのような色分けがなされたのは記憶に新しい。中国やロシアは第二の世界にいて、限りなく第三の世界に近づき、彼らを取り込もうとしている。インドは第一の世界に良い顔をしながら、あくまで第三の世界の盟主たらんと、そして第一・第二の双方から利益を得ようとする。トルコも第一の世界と見せかけながら、第二の世界に近づいている。

 世界を危機から救うことが期待される国連は、そのいずれの世界からも一定の権威を認められているところは救われるのだが、第三の世界にとっては、存在感を示し得る唯一の組織体として、利益を得られるものとして期待される一方、第二の世界からは最大限利用される存在に堕し、第一の世界からは、ロシアの侵略を止められなかった安保理をはじめ、限界が指摘されて改革が求められる始末である。国連は、日本人が思うような平和の象徴でも美しいものでもなく、そもそも設立の当初から、世界の権力政治が蠢くアヤシイ世界であって、今に始まったものではない。

 こうした危機的な状況の中で、植民地支配の歴史から比較的浅い傷を負っただけの日本の立ち位置は、第一の世界の中では第三の世界との賛同を得やすく、第二の世界ともそれなりに付き合って来たので、単独では難しいにしても、ミドルパワーの国家を結集して事態を動かし得るという意味で、むしろこれまでよりも行動が期待されているのではないかという気がしている。岸田政権にそれが出来るのかと言われると、甚だ心許ないのだが・・

 

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2022回顧④安倍晋三 銃撃事件

2023-01-07 02:35:39 | 時事放談

 個人的には、2月24日に加え、7月8日という日付も忘れることが出来ない。Wikipediaでは「安倍晋三 銃撃事件」と命名された。この事件を知ったときの、昼食時の会社の食堂という場所だけでなく、コロナ禍で時間をずらして黙食が奨励されてまばらなはずの食堂のテレビの前の一角にやたら社員が居残り、どこか沈んだ空気に包まれていて、私も着席してテレビ画面に何気なく目をやって一瞬にして凍り付いた、その状況までもが鮮明に記憶に残り、つい昨日のことのように思い出される。

 去る者は日々に疎し、と言うが、その後、間延びした国葬儀に至るまでの政治を取り巻く社会状況は、日本らしくない、と言うよりも、安倍氏亡きあとも安倍長期政権によって進んだ社会的分断あるいは安倍氏への憎悪が極限にまで達して、如何にも、と言うべきかもしれない。コロナ禍でストレスが溜まって増幅されていたのかも知れないが、正直なところ醜くて正視に堪えなかった。反論は歓迎するが、憎悪には辟易する。国葬儀に抗議するために招待状をアップして欠席を表明した著名人は「見苦しかった」。「正義」を常に訴える存在であるはずの市民運動家は、安倍は殺されて当然とまで言い放った。もはや論理ではなくて生理である。

 政治状況に関して言うと、安倍政権以来、たとえば集団的自衛権の限定行使容認などを捉えて、国会での審議もなく閣議決定されてよいのかとか、議論が尽くされていないとか、国民の理解が得られていないとか、説明が足りないといった批判が多くなった気がする。実際には、集団的自衛権の限定行使容認などを巡って、かなりの時間が費やされているのだが、お世辞にも生産的な議論が行われたとは言えない。これには、自民党にも無論責任があるが、むしろ良い質問や厳しい追及が出来なかった野党の責任こそが重いと考えられることからすると、ためにする批判と言うべきではないか。そういう意味でも、これらは論理ではなく生理、生理的反応だと見做せるかも知れない。

 かつてトクヴィル(1805~59年)は、民主制のことを多数派による専制と呼んで警戒した。フランス革命の急進主義がヨーロッパ全土を巻き込んで荒廃に至らしめ、王政に復帰した時代の、貴族の生まれである彼の偽らざる心情であろう。ノブレス・オブリージュという自負の表れと言うべきかも知れない。同時に彼は、アメリカを旅して、ローカル・コミュニティにおける自治の可能性にも注目し、今に読み継がれる『アメリアのデモクラシー』(1835及び1840年)をものした。もともとの民主制は、古代のアテネにしても、中世イタリアの都市国家にしても、統治規模は小さかった。ルソー(1712~78年)は、全ての人間に自由が保障されるような政体の建設を夢想し、僅か広島県ほどの面積でしかないコルシカが先陣を切り、そうした理想的政体を樹立するよう期待した。宗主ジェノヴァ共和国に対して、農牧民を主力とするコルシカ独立戦争またはコルシカ革命と呼ばれる武装反乱が1729年に発生し、1755年に独自の憲法を布告するまでに至っていたからだ。「ルソーはそのアイディアを古代都市国家から引き出し」ており、「大衆による統治はある限られた地域と人口の国においてのみ有効なのであって、18世紀中葉の広大なヨーロッパにおいて、フランスのような大国に適用されるべきだとは決して言わなかった」(杉本淑彦氏による)という。

 翻って現代の私たちは、代議制により、高度な産業社会にあっても、専門的であるべき官僚制を基礎にした国家レベルの民主制を実践している(その意味では、同じ民主制でも、都市国家で実践された直接民主制とは似て非なるものと言う専門家もいる)。古代アテネでは、なんとクジ引きこそ「民主的」であり、選挙は党派的であるとして嫌われたのだったが、現代の私たちは、主権者たる国民の代表を選ぶのに選挙制度を採用し、過ぎたる党派性に悩まされる。アベガーと言われる人たちは、安倍長期政権を多数派の専制と呼ぶに違いないが、平等という大義のもとに少数派の横暴もあり得ることには気付かない。

 更に言うと、最近はポピュリズムを大衆迎合主義などと訳すが、学生時代には「衆愚政治」と教わった。国家の主権者たる衆を「愚」と呼んではいけないようだ。これもポリコレ全盛の時代の言葉狩りの一種だろうか(ついでに思いつくままに、例えば発展途上国という呼称だって、発展を是とするようで何だか鼻白むが、ありのまま後進国と呼んではいけないようだ。片手落ち、なども禁止用語になった。不自由な時代である)。そういう点からも、民主政治は絶対善ではないし、逆に王政も絶対悪ではなく、民意を汲んで自由が尊ばれるならば王政や貴族政であっても善政があり得ることも教わった。主権行使の形態はともかくとして、主権行使のありようこそが問題とされるべきなのだろう。

 と、かつてチャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。 これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と揶揄したように、リベラルな方々が何かと絶対視する民主制を相対化したところで、昨今の政治状況の話に戻ると、論理ではなく生理によって支配された感なきにしもあらず、であって、憂いを感じないわけには行かない。論理を経た上での生理だとする反論が返って来そうだが、どうも論理のない生理だと、違和感を覚えないわけには行かない。

 安倍氏を巡っては、内政とりわけ経済の成長戦略は不発で、大いに不満が残るが、外交・安全保障政策は評価している、とは本ブログでも繰り返し述べて来た。この外交・安全保障政策は、党派を超えて国家として一貫性があってこそ諸外国から信頼され安心されるのが一般的だが、日本の場合はどうもコップの中の争い、所謂党派争いに巻き込まれて翻弄されるか(例えば冷戦時代に社会党が非武装中立論なんぞを唱えたように)、選挙で票にならないから真面目に扱われない(ばかりに不勉強な政治家が多く、これもポピュリズムの成れの果てであろう、そういう人たちに説明が足りないと言われても、何をかいわんや、であろう)か、実に無残な扱いを受けて来た。それが安倍氏に対する世間の評価にも繋がっている。そして、その後の政治状況、とりわけ「人の話をよく聞く」政治の頼りなさを思うにつけ、政治信念や志ある政治家であることにこそ、実は私は安倍氏を評価していたのではないかと思うようになった(まあ、アベガーと言われる人たちは、誤った信念と言いたいかも知れない 笑)。それだけに時間が経つにつれて、なおのこと、政治家・安倍晋三ロス・・・喪失感をしみじみ感じる今日この頃である。

 エッセイストとして、かつては山本夏彦氏や谷沢永一氏を、今は塩野七生さんを愛読している。その塩野さんが、『誰が国家を殺すのか』という些か挑発的なタイトルの(最新の)新書の後書きで、安倍氏の死を悼んでおられる。

(引用)人間とは何か大事を行うとき、その動機が私的か公的かにかかわらず、自分の行動には必ず誰かが賛成してくれるにちがいないと思えるからできる、という一面がある。完全に孤立して誰一人賛成してくれないと思うとき、人間はなかなかそれに踏み切れない。  政治家にかぎらず何らかの権力を持っていた人には、必ず敵がいるものだ。何かをやったから、その当人を排除する考えも出てくるのだから。この論理だと、権力を持っていながら何事もやらなかった人ほど、寝床の上で自然死を迎える率が高くなる、ということになる。安倍元首相の殺害事件を知って、暗殺された権力者たちの列伝を書いてみたら、と思った。もはや体力がなくて、想いだけで終わるであろうけれど。(引用おわり)

 以て瞑すべし、であろう。この私の反応も論理ではなく生理かも知れない(笑)

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2022回顧③カタールW杯

2023-01-05 23:21:15 | 時事放談

 年末にサッカーの「王様」ペレが亡くなった。享年82。カタールでのW杯決勝のエムバペとメッシの新たな伝説を見届けて、安心したかのように逝った。ネイマールはインスタグラムに「ペレ以前、サッカーは単なるスポーツだった。ペレが全てを変えた。彼はサッカーを芸術、エンターテインメントに変えた。旅立ってしまったが、彼の魔法は残り続ける」と綴った。

 そんなペレの後を追って周回遅れでスタートした日本が、此度のW杯で活躍し、日本中を湧かせた。いや、ドイツやスペインといった優勝経験国に逆転する金星を二つもあげて「死の組」を1位通過した(しかし何故かコスタリカには負けてしまった)。日本だけでなく、C組ではサウジアラビアがアルゼンチンを下したし、モロッコに至ってはアフリカ勢で初のベスト4進出を果たすなど、アジア・アフリカ勢の躍進が目を引いた。舞台裏で、日本人サポーターが客席のゴミ拾いをして去り、日本代表がロッカールームをキレイに片付けて感謝のメッセージと折り鶴を残すのが称賛されるのは見慣れた光景、日本人の面目だが、表舞台でのこれらの戦績は間違いなく、守保監督の言う「新しい景色」を垣間見させてくれるものだった。

 月並みだが、「個」の力が強くなったのだろう。陸上の400mリレーに典型的に見られるように、相対的に弱い「個」の力を「個」の連携によるチームプレーで補うのが、これまでの日本の戦い方だった。ところが此度の日本代表メンバー26人中、欧州組が実に19人にのぼった。24年前に初出場を果たしたフランス大会ではゼロ、全員がJリーグの国内クラブ所属だったことと比べれば、隔世の感がある。たとえば三笘薫がこれほど活躍するとは思ってもいなくて、スペイン戦で見せたライン際1ミリで折り返すスーパー・アシストは圧巻だった。

 それでも、大久保嘉人氏は、日本代表に足りないものとして、なお「個の力」を挙げる。レベルアップのためにポゼッションサッカーの進化も必要だが、「ポゼッションをするにも個の力がないとできない」と言う。「日本は組織として守る、攻撃するっていうのはできると今回分かった。だけど組織でやってるときに研究されると、立たないといけない場所にディフェンスがいるんです。そうなった時に自分たちで考えて動かないといけないし、一人でドリブルで抜いたりとか(ディフェンスを)はがさないと、その先には行けないんじゃないかなと思います」と。中村憲剛氏は、「個」か「組織」かの二者択一ではなく、「個も組織も」の両立が必要だと語った。

 そして大会決勝は、エムバペとメッシという「特大の個」を押し出したフランスとアルゼンチンの間で争われ、アルゼンチンが制した。「神の子」マラドーナが伝説的な活躍をみせた1986年メキシコ大会以来36年振り三度目の世界一で、主将メッシが史上初めて二度目の大会MVPに選ばれた。

 メッシと言えば、19年間のキャリアで、2008年のオリンピック、チャンピオンズリーグ4回、FIFAクラブワールドカップ3回、ラ・リーガ10回、昨年夏には待望のA代表初タイトルとなるコパ・アメリカ優勝を果たし、史上最多7度のバロンドールを受賞しながら、唯一欠けていたタイトルがW杯だった。いくら日本をはじめアジア・アフリカ勢が頑張ったと言っても、華のあるメッシのプレーの前では霞んでしまう。画竜点睛を欠くと言うが、まさに竜だか達磨だかに「瞳」を入れてメッシを伝説にするための大会だった。

 天国のペレも、「魔法」が残り続けて、さぞ安らかなことだろう。サッカーの「魔法」には魅せられる。

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2022回顧②白紙運動

2023-01-03 11:29:05 | 時事放談

 11月末に、中国の学生さんたちがゼロコロナに堪え切れずに立ち上がった。三期目続投を決めた習近平政権にとっては過去10年で初めてのことで、これほどの大掛かりな政治デモは天安門事件以来とも言われ、その対応が注目された。

 天安門事件では人民解放軍が出動し、その名に恥じて、人民を踏みにじって、やっぱり党の軍隊に過ぎないことを露呈した。当時、世界中から非難を浴びた反省もあるのだろう、あれから33年余りを経て、IT技術の進歩はすさまじく、当時のように露骨に武力で制圧するのではなく、街中に設置された監視カメラやネット検閲によって、密かに主要人物に警告し場合によっては拘束するなど、圧力をかけるのも巧妙化しているようだ。

 おまけに驚いたことに、12月7日にはゼロコロナ政策の緩和に踏み切った。メンツを大切にする中国で、とりわけ統治の正当性を最重視する共産党に誤謬があってはならないはずだが、どうやらゼロコロナ政策そのものが撤回されたわけではなさそうだ。今、中国で流行しているウイルスは、感染力は強いが弱毒性のオミクロン株BF.7という系統で、都市封鎖された上海で広がっていたBA.5系統と違って重症化せずに軽症で済むため、「中国は率先して状況に応じて防疫措置を最適化し(中略)新しいコロナウイルス感染を『乙類甲管』から『乙類乙管』に移行させ、重点を感染予防・抑制から重症化予防・健康管理へと徐々に移しています。これは科学的かつ(ウイルスの変化と感染状況に沿った)臨機応変の対応で必要なことです。」と強弁した(12月28日の外交部定例記者会見)。言い換えると、習近平政権は、一見すると、学生さんたちに迎合したように見えるが、その実、ゼロコロナ政策を続けることによる経済低迷のダメージと、ゼロコロナを止めて経済を回復させるために人民に集団免疫をつけさせるには一時的に混乱するであろうダメージとを比較衡量して、後者、すなわち経済回復を選択したということだ。言わばショック療法で、学生さんたちに対抗したとも言えるし、タイミングがたまたま合致しただけで、学生さんたちの運動を政策転換に利用したとも言える。

 もとより習近平政権が勝算のない賭けに出たとは考え辛い。

 世間では、中国製の不活化ワクチンは欧米製のmRNAワクチンより効果が劣るとか(オミクロン株対応でもないらしい)、高齢者の接種率が低いと言われ、中国の医療体制が貧弱なままゼロコロナ解除に踏み切って、この年末にかけて、案の定、医療崩壊して路上で点滴を受けたり、火葬待ちで車の長蛇の列ができたり、日本の薬局で風邪薬の爆買いが起こったりしている報道が溢れた。1月22日には春節の民族大移動が始まり、感染のピークを迎えるとも言われる。果たして、習近平政権にとって想定の範囲内のダメージで済むのかどうかは評価不能とするために、情報統制に踏み切った。12月14日に、無症状感染者数の公表を停止し(大規模なPCR検査を止めたことにより人数把握が不能なため)、20日に、明確なコロナ感染による肺炎や呼吸不全以外は関連死に含めないという基準を決め、25日に、新規感染者数の発表すら行わないことを決めた。このあたりの、(ゼロコロナという)極端から(さしたる準備もなく解禁するという)極端に走り、かつ誤謬を許さない(世間にそれと評価させない)情報統制までやってのけるという強権発動こそ、中国共産党の本領であろう。

 ところで、ウクライナ戦争では、クラウゼヴィッツの「三位一体」論を思い出した。近代国家間の戦争とは、「政策を追求する国家」「それを実行する軍隊」「熱狂的に戦争を支持する国民」が三位一体となったものだという。実際にクラウゼヴィッツが間近に見たナポレオン戦争が強かったのは、それまでの職業的常備軍と違って、国民としての自覚を持ったフランス大衆が国家の危機を自らの危機と認識し、強制によってではなく自らの意志で主体的に祖国防衛に参加するようになったところにあった。それは両大戦に引き継がれ、全ての国民や社会全体を巻き込んだ総力戦が現出した。「三位一体」の「国民」に着目すると、此度のウクライナでは、ナショナリズムに燃えた「国民」から高過ぎるほどの支持があって、もはや安易に妥協することが許されず、さりとてロシアには「国民」が不在で、プーチンの威信を止めることが出来ないでいる。結果として、ウクライナとロシアは交渉に入れないまま、間もなく二年目を迎えようとしている。

 このように、ロシアでは20年余りにわたるプーチン政権の間に、元KGBのプーチンとその取り巻きが統治するマフィア国家となり、中国では70年余りにわたり、共産党という、かつての軍閥の一つが国家を乗っ取って社会統制を強めて来た。いずれにあっても、欧米で言われるところの「国民」は存在せず(因みに中国では「人民」と言う)、自由よりも強権による安定を志向する警察国家である点が共通するのは、かつてモンゴルなどの草原の民によって簒奪された大陸国家の悲哀であろうか。

 それでも、中国の学生さんなど、若者たちはVPN接続によって外の情報に触れていると言われる。そして、強固に統制された警察国家の故に、証拠にされる文言を避け、抗議のシンボルとして「白紙」を掲げた。かつて東欧に見られたカラー革命を連想させて興味深い。因みにロシアでは、2015年の国家安全保障戦略で、次のように述べており、NATO東方拡大は方便に過ぎなくて、プーチンはカラー革命をこそ恐れているのではないかと思わせる。これは習近平の中国でも同じだろう。

 「ロシアと西側の間で現在生じている緊張関係は、内政や対外政策で自律的な道を歩もうとする前者を後者が抑え込もうとしていることに根本的な原因がある。そしてこのような抑え込み政策の手段として、西側は軍事的手段だけでなく、政治・経済・情報などあらゆる手段を用いている」(小泉悠氏『現代ロシアの軍事戦略』より)

 ここに言うハイブリッド戦は、まさに自分(=マフィアや軍閥)がやるから相手(=西側)もやるだろうという猜疑心から生まれている。主権は国民にあって、選挙を通して負託を受けて政治が行われる民主主義社会の一員としては、警察国家と一緒にして欲しくない(まあ、何がしかのカネとクチ=アドバイスは西側から出ているようだが)。逆に言うと、そこ、すなわち統治の脆弱性にこそ、中国やロシアの決定的な弱点がある。

 そうは言っても、香港の民主化デモでも見られたという「白紙運動」は、上に政策あれば、下に対策あり、と言われる中国らしいエスプリが込められるが、ある種の諦めも見て取れなくもない。それが中国4000年とは言わないまでも、秦以来2000年の歴史の中で繰り返されて来た「革命」の火種となるかと言うと、その強固な警察国家の故に、甚だ心許ない。当面は、この感染拡大の成り行きを、警戒しながら辛抱強く見守りたい。

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2022回顧①ウクライナ戦争

2022-12-29 21:48:54 | 時事放談

 この一年、プーチンはよくもまあ堂々とウソを言い放ち、残酷であり続けられるものだと、ウンザリさせられた。2月24日という、この戦争が始まった日付まで記憶に残るほどの衝撃は、21世紀にもなって、19世紀的、という意味は、大国が切り取り御免と言わんばかりに小国を侵略する、あからさまな大国主義の時代がかった、ということだが、そんな野蛮が、過去にもイラクやシリアやアフガニスタンで行われたに違いないのだが、よりによって東欧とは言えヨーロッパという、歴史的に先進の地と一般に見なされるところで、白昼堂々、しかも比類なき残酷さをもって繰り広げられているところにあるのだろう。それだけ西側に住まう私たちが平和ボケしていたことの証左なのだろうか。人類はそこまで進歩していなかったのだ、と。

 いや、私はこのブログで、この事件を理解するに困った挙句、ロシア(や中国などの権威主義国)と私たち西側の人間とでは、所詮は生きている時代相が違うのだと結論づけざるを得なかった。かつて宮崎市定先生は、世界はバラバラに、西洋史や東洋史が独立して存在するのではなく、交流がある以上、相互に影響を与え合いながら、地域的に多少の跛行が見られるものの、歴史に並行現象があることを示されたのだった(添付のように)。言い換えると、ロシアや中国のような権威主義国は、歴史上の悲惨な出来事(たとえばロシアにとっては2千万人以上が戦死した独ソ戦やソ連崩壊、中国にとってはアヘン戦争をはじめとする帝国主義による簒奪)へのルサンチマンや、良き時代(たとえばプーチンが尊敬するピョートル大帝の時代、中国の場合は、言うほどの良き時代はなく、今こそ一番良い時代だと、中国共産党は自らの統治の正当性を訴えたいところだろう)へのノスタルジーを、その恣意的な歴史認識教育を通して、国民や人民の間に再生産し、ポスト・モダンを生きる西側の自由・民主主義国とは異なる、独特の気質を形づくっていると言える。

 そして私たちに冷や水を浴びせるように、戦争は誤算や誤認、あるいは独裁者の気紛れ(本人にとっては必然と見るにしても)によって起こるものであることを、否応なしに見せつけたのだった。よく言われることだが、ロシア政治や国際政治の専門家ですらプーチンの戦争(彼に言わせれば特別軍事作戦)を予見した人は稀だったのは、どう見てもそこに利があるとは、また合理的であるとは、思えなかったからだ。そこには、独裁者に忖度する周囲から集まる情報が不正確で不十分な場合が含まれ、そんな情報に基づいて合理的に判断したところで、結果は合理的とは言えなくなる。また、国際政治学者は、リーダー個人の資質や心理に対する研究が足りなかったことを反省された。プーチンは病気で狂ってしまったのではないかと詮索されたが、一応、正気を保っているようだ(コロナ禍でちょっと歪んでしまったかも知れないが 笑)。

 こうして、この一事は、私たちの安全保障観にも多大な影響を与えることになった。パンデミックが流行り始めた頃、新型コロナは世界の歴史を変えるのではなく、歴史の変化を加速するだけのことだという言説に説得力を感じたもので、確かに、通常であれば日本では何年もかかりそうなリモートワークが一気に広がった。その伝で言うと、プーチンの戦争もまた時代の変化を加速した。中国やイランや北朝鮮を含む権威主義国と自由・民主主義国との分断がより一層拡がったし、ドイツや日本で、通常であれば5年や10年はかかりそうな国防費の増額に対する国民の理解が一気に進んだ。

 なお、この変化をなかなか受け入れられない人は、数字ありきの議論ではダメだと、ためにする批判をされるが、GDP比1%前後というこれまでの在り方こそ数字ありきだった。そのため、弾薬は不足し、航空基地に戦闘機を守る掩体はなく、保守部品が手に入らないため完成品をバラして部品を引っこ抜く(これをカニバライゼーションと言う)ことによって、機体は存在しても稼働率は低いという、俄かに信じがたい惨状が語られた。

 もとより2%ありき、なのは事実だ。保阪正康さんは、アメリカの要請によるのではないかと疑われるが、そんな生易しいものではないだろう。自由・民主主義を守るNATO=西側諸国に連帯を示し、西側陣営に留まる意思表示として負担すべき一種の会費だと、主体的に苦渋の決断をしたものだろう。なにしろ、世界の警察官という、お節介ながらも世界の秩序をまがりなりにも支えて来たアメリカの義侠心が、国内の左右の分断によって勢いを削がれ、西のウクライナ危機が東の台湾有事を誘発しかねない状況下で、これまでのようにアメリカ一国に頼れなくなっているのだ。中国の経済力は十分に大きく、もはやアメリカと言えども、ましてや日本一国では太刀打ちできないのは明白だ。ウクライナ危機では、どうせ3~4日、もっても一週間でキーウは陥落するだろうといった目論見を、ウクライナ国民の団結がものの見事に打ち破り、自らの国は自らが守る覚悟を見せたことで、NATO諸国の目を覚まし、支援を引き出したのだった。

 そう、国家の生存や独立は一義的には自衛隊が守るものではあるのだが、最終的には国民自ら立ち上がり守る覚悟がなければ、守るべきものも守れない。ウクライナは、ドローンでロシア領をちょろちょろっと攻撃したが、基本的に(日本の国是とされて来た)「専守防衛」状態で、与えられた防衛装備品からも勝たせてもらえず、持久戦にもつれ込んだ。それを日本人に見せつけたことこそ、ウクライナ戦争の最大の教訓であろう。

 

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台湾・統一地方選

2022-11-27 16:39:57 | 時事放談

 台湾に特別の思い入れがあることは以前にもブログに書いた。その台湾で昨日、統一地方選があり、与党・民進党が惨敗し、蔡英文総統は責任をとって党代表を辞任した。実際には現状をやや下回る程度だったが、前回(2018年)大敗して以来の退潮に歯止めをかけることが出来なかったことになる。

 こうなると、つい、中国の所謂“Silent Invasion”を疑ってしまうが、そうでもないらしい。毎日新聞の署名記事(*)によると、民進党は、「地域振興策を訴えると同時に『抗中保台』(中国に抵抗し台湾を守る)を掲げた」が、不発だったようだ。地方選では通常、(総統選と違って)対中政策は争点にならず、「地域の政策や候補者の資質、知名度などが争点となる」など、投票行動が異なるのだそうだ。一か月前の政党支持率調査でも、民進党33.5%、国民党18.6%で、民進党が優勢だったようだ。

 台湾と言えば、檳榔(ビンロウ)を噛みタバコのように噛んで吐き出して赤く薄汚れた歩道や、街の屋台が醸し出す独特の油臭さとともに、懐かしく思い出すことどもがある。

 今から30年以上も前、戒厳令が解除された当時の台湾にある子会社に何度か出張したことがある。日本に留学したことがあるという現地人従業員と(日本語が通じることもあって)親しくなり、よく飲み歩いた。ある時、会社で輸入通関が止まって往生していると、彼が動いて、問題がささっと解決したことがあった。聞くと、税関に「袖の下」を払ったのだと、ケロリとして言う。またある時、(営業でもない彼が)商談を見つけて来て、会社の売上に貢献したものだから、大いに喜び合ったのだが、裏で「口利き料」を会社に要求していたと噂された。彼は、台中にある銀行の頭取の息子を自称し、後に政治家を志したことからも、恐らく地方の名士の子として育って、当たり前のことをしたまでのことだったのだろう。華西街のレストランで友人を紹介すると言われ、そのままその友人宅に招かれて、その余りの(やや怪しげなまでの)立派さに、どういう人かと後で尋ねたら、ヤクザの親分だと、自らの人脈を誇示するようにしゃあしゃあと言ってのけたこともあった。

 彼だけの問題ではない。資材調達部門の永年勤続の従業員は、キックバックを貯め込んで家を建てたとまで噂された。当時は台湾社会の全体にそういう油断ならないイカガワシサ、日本では絶えて久しい「活気」が溢れていた(いや、日本にそういう「活気」がどこまであったか知らないし、中国人社会に独特のものなのかも知れない)。口利き料やキックバックは、消費税のための統一発票という政府公認で政府しか発行できないはずの(ナンバリングされた)請求書が裏で流通し、偽造が横行していたからこそ可能だった。また、当時は日本製のクォーツ時計が全盛で、街の時計屋の奥の部屋では、Citizenのムーブメントを使っていると自慢するブランド時計の海賊版がこっそり、しかし、そこかしこで販売されていた(店先にロゴを外した商品を並べているので、“それ”と分かる)。宮沢りえちゃん写真集の海賊版が、時を置かずして販売されたことには驚かされた。空港の免税店のような、明るい近代的な場所でも、高額紙幣で支払ったところ、本人は気付いていないだろうと、少額紙幣であったかのような釣銭を渡されて、抗議したことがある。夜、タクシーを拾うと、どうせ日本人だから分からないだろうと遠回りされることはザラにあった。こうしたことは、しかし、日本人が憎いからではなく、当時の台湾がまだ貧しかったからであり(さらに言うと、金持ちであろうはずの日本人を騙す、たかるという意味では、アジアに広く見られる対面相場と言えなくもない)、個人が悪いのではなくそういう習慣の社会だったからだ。こうしたイカガワシサを補って余りある魅力が、台湾にはあった。日本もかつてはそうだった血が騒ぐのか、あるいは対照的な発展を遂げたからこそ、発展途上の地にありがちの、明るさの半面に残る怪し気な陰がなんとも憎めなくも、懐かしくもある。

 だから、地方選では、一般には経済問題、そして毎日新聞の記事が「国民党は長年にわたり与党の座にあったため地域の有力者との結びつきなどは依然として強く、今回の選挙でもこうした地力を生かして支持を拡大した」と解説するように、人脈に繋がるような好き・嫌いや独特の人格・能力が作用するのだろうと、今なお東京五輪開催に絡む汚職に揺れる日本を見ていても、なんとなく納得するのである(苦笑)。

 問題は、2024年1月に予定される総統選であろう。前回の2020年は、中国による香港民主派弾圧への反発から、蔡英文総統が地滑り的勝利を得て再選された。さすがに中国は歴史に学ぶだろう。統一をも睨み、“Silent Invasion”は激しさを増すと思って間違いない。この統一地方選で、中国政府は、「平和と安定を求め、良い暮らしを送りたいという主流の民意を反映している」と歓迎する談話を発表した。確かに大陸中国とは経済的繋がりが強く、安定を求めるのはよく分かるが、次の総統選では自由・民主主義への台湾人の思いも試される。私たち日本人は、アメリカやその他の西側諸国とともに、常に台湾の側に身を置いて、その行方を見守りたい。

(*) 「台湾地方選 与党・民進党、惨敗 蔡英文総統が党主席を引責辞任」(11月26日付)

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/e5-8f-b0-e6-b9-be-e5-9c-b0-e6-96-b9-e9-81-b8-e4-b8-8e-e5-85-9a-e3-83-bb-e6-b0-91-e9-80-b2-e5-85-9a-e3-80-81-e6-83-a8-e6-95-97-e8-94-a1-e8-8b-b1-e6-96-87-e7-b7-8f-e7-b5-b1-e3-81-8c-e5-85-9a-e4-b8-bb-e5-b8-ad-e3-82-92-e5-bc-95-e8-b2-ac-e8-be-9e-e4-bb-bb/ar-AA14Abjz

(似たような題名の27日付記事は有料:https://mainichi.jp/articles/20221127/ddm/012/030/070000c

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いまどきの世論

2022-10-09 12:21:13 | 時事放談

 安倍元首相が亡くなってから早三ヶ月が過ぎた。まさか死してなお追及されるとは、よもや安倍氏ご自身も思いもよらず戸惑っておられることだろう(苦笑)。安倍氏亡きあと、岸田首相が野党やリベラル左派メディアのターゲットになったが、まあ、体制側の足を引っ張ることがミッションの彼らにとって、何等かのネタがあれば誰でもよいのだろう。

 知り合いの警察の方は、国葬儀に向けて支援要請され、国葬儀を警護するのも大変なら、残された者も少ない陣容で街を守らなければならないので大変だとぼやいておられたが、何はともあれ、警察が威信をかけた国葬儀が無事終わって、よかったと思う。山口組系暴力団は、こうした全国的イベントのときは行動を自粛するお触れを全国に出すのだそうだ。このタイミングで諍いを起こして、警察から恨まれるのを避けるというわけだ。ところが、よりによって黙祷のときを狙って鉦や太鼓を持ち寄って騒ぎ立てる人達がいるとは、なんとお行儀が悪い、能天気なことだろう(苦笑)。それに引き換え、献花の列は四ツ谷駅あたりまで7キロほど続いて、4時間かかっても整然と並んで待っていたという。この三ヶ月の喧噪の中で、ようやく本来の日本人らしさを見せてくれたような気がして、ほっとする。日本人にも、それから政治レベルでも、品位があって欲しいものだとつくづく思う。

 その品位を考えるとき、いまどきの言論空間の品のなさを思わずにはいられない。

 世論は移ろいやすいもので、安倍元首相が亡くなった当初は、選挙期間中の暗殺という衝撃と、志半ばで凶弾に斃れたことへの同情が集まったことから、7月半ばの時点で、リベラル寄りの毎日新聞が実施した世論調査でさえ、安倍元首相の功績を「評価する」と答えた人は7割に上った。しかしその後、自民党と旧・統一教会の「ずぶずぶ」の関係が追及されるようになると、空気は一変した。接点があった政治家は自民党だけではなく、規模は違えど立憲民主党にもいる。旧・統一教会は確かに社会通念上はカルト教団と見られているが、法的に反社と位置づけられるわけでもなければ解散命令も出せていない。それにもかかわらず、野党やリベラル左派メディアはここぞとばかりに自民党叩きに夢中になった。私も、日本人の朝鮮半島に対する贖罪意識に付け込んだという事実だけで旧・統一教会を許せない思いだが、安倍政権の韓国や北朝鮮に対する政策を見る限り、その影響を受けたとは思えない。ここ20年は目立った被害報道がなかったという意味では、最近になって俄かに騒ぎ立てるメディアは先ずその不明を恥じるべきではないかと思うが、その気配はない。どうにもイカガワシイ。

 こうした誘導は、少数ながらも(と私が勝手に思っているだけだが)声が大きいために、さも大勢であるかのように装い、庶民感情に「アヤシイ」「ウタガワシイ」と訴える、これまでも何度も繰り返されて来た印象操作だった。ここで少数と言うのは、社会の分断が深刻化しているアメリカの岩盤保守・リベラル・無党派層の比率が大雑把に30・30・40%(例えば上智大・前嶋和弘教授による)とのヒソミに倣えば、日本の岩盤保守・左派・無党派層は30・20・50%(左派はせいぜい15~20%か)というのが、私の勝手なイメージだからだ。あれほど国会を空転させながら追及し切れなかったのに、論理としての「疑わしきは罰せず」が通用しない言論空間では独特の生理的反応が支配するようだ。国会にはもっと他に議論することがあるだろうに・・・と思うが、どうもそうではない。そのような価値判断基準の方々には、安倍政権の、とりわけ過去の政権と比べて専門家の評価が高い外交・安全保障政策の功績をいくら語ったところで、聞く耳を持たないのだろう。

 こうした党派性は世代論としても語られ得るのが日本の特徴だろう。同志社大学の兼原信克氏(元・内閣官房副長官補)はある論考で、「歴史問題は、日本人のアイデンティティを引き裂いて来た」「大日本帝国時代を知る世代と、戦後直後のマルクス主義世代と、高度成長後の自由主義的な世代は、全く異なる日本人である」と述べておられる。私なりに敷衍すると、大日本帝国時代を知る人は、帝国主義という、食うか食われるかの時代相の下で、戦争を繰り返すまいと祈る庶民感情は尊いとしても、欧米列強の植民地支配の脅威に対抗し伍するために立ち上がったとの矜持や国家のありようを否定することは出来ないだろう。私の父やその上の世代がそうだ。そういった現実感覚・現場感覚のない戦後のマルクス主義世代は、歴史を理念として捉え、戦後の平和は憲法9条のお陰と(信じ難いことに)心から信じる護憲派であり、国家権力を悪と忌み嫌うのは生理的ですらある。全共闘世代がその典型であろう(前々回のブログで触れた高田氏もこの世代と思われる)。そして私を含む高度成長期にかかる世代は、大手メディアを中心に色濃く残る日本的な意味でのリベラル左派の空気を吸わされながらも、上記二世代のいずれからも距離を置く、しかし人によってその距離感はさまざまな世代である。更に言うと、高度成長を知らない若い世代が後に続いて、彼らはSNSを駆使するからリベラル左派メディア(所謂オールド・メディア)からは自由であり、護憲という戦後の政治思想界における呪縛からも解放されて、国際環境が変わったことを理解し、就職環境を良くしてくれた安倍政権を素直に評価する。若い人ほど保守的と言われるのも、年配者に比べればという相対的なものとして、理解され得る。

 いずれにしても、こうした党派性は世論にどのように作用するのだろうか。

 昨年、「エコーチェンバー可視化システム」というアプリをリリースされた鳥海不二夫・東京大学教授は、ご自身のツイッターアカウントがエコーチェンバー度上位10%に入っており、かなり強いエコーチェンバーの中でタイムラインを眺めていることが分かったと告白されていた(*)。日頃、研究者やIT技術者を数多くフォローされているため、結果として居心地の良い情報環境を構築することになったのも無理からぬことだと思われる。その鳥海教授によると、最近出版された論文では、リベラル系の方がエコーチェンバー度が高い傾向があることが示されているそうだ。長くなるが引用する。

(前略)安倍元総理に関するツイートがそれぞれのコミュニティでどの程度拡散しているかを分析すると、安倍批判のツイートを拡散している人の大半は、同様のツイートを10回以上拡散しているリベラルなアカウントであることが示されました。これはかなりコアの「反安倍政権」の人々です。一般に政治的なツイートを10回もするアカウントは、それほど多くありません。安倍元総理批判のツイートの約9割はそういう人たちが発信したツイートでした。 このようなアカウントが作っているコミュニティを分析して見てみると、これらのアカウントは主にお互いにフォローする関係にあることがわかりました。 すなわち、外部とのつながりが少ないコミュニティを形成し、リベラルはリベラル同士で関係性を作る割合が高くなっていたのです。すなわち、リベラルなアカウントが好む安倍元総理を批判するようなツイートは内部でのみ拡散している、エコーチェンバー現象が起きていることがわかったのです。(後略)

 なんとなく首肯したくなる話ではないだろうか。また、2017年の衆議院選挙の際、立憲民主党のツイッター公式アカウントのフォロワー数が自民党のそれを超えたのは、立憲民主党の人気がネット上で高まったからではなく、仲間内ばかりでフォローをして数が増えただけで、拡散する力は自民党の公式アカウントの方が強かったことが分かったそうだ。そして、こうも語っておられる。

(前略)エコーチェンバーの中にいると、周りはみんな自分に賛成してくれるので、世界中の人が賛成してくれているような気がしてきます。私たちは、目に見えないものを想像するのは苦手です。実は自分たちが少数派だということには、なかなか気づきません。だから選挙の後に、「自分の周囲は皆、野党を応援しているのに、なぜ与党が勝つのか。これは不正選挙に違いない」と言い出す人が出てきたりします。(後略)

 2020年のアメリカ大統領選挙を思い出すが、エコーチェンバーのもたらす影響は、何もリベラル左派に限ったものではなく、保守的と言われる共和党のトランプ支持派にも言えるだろう。日本では、リベラル左派のエコーチェンバーの中にいる人たちが仮に少数派であっても多数派と思い込み、その少数派のリベラル左派がリアルのメディア環境を支配しているために、なんとなく無党派層を巻き込む結果としての世論調査を弾き出しているのではないだろうか。こうして、安全保障法案や特定秘密保護法、さらにはアベノマスクのような個別事象で盛り上がり(自民党の足を引っ張り)、しかし、平静に戻る選挙では自民党支持が大勢を占める(足を引っ張るだけの野党には支持が集まらない)というのがこれまでの状況だったと考えられる。そして此度は、旧・統一教会や国葬儀で盛り上がった。

 かつてのヴォルテールの言葉(あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る)を持ち出すまでもなく、言論の自由は守られなければならない。さりとて、自由をはき違えて、個別事象で盛り上がり、この国会では旧・統一教会問題で盛り上がって、それでよいのかということだ。他に議論すべき重要なテーマがあるだろうに・・・と、つい憂えてしまうのである。自民党に対抗し政権交代を担い得る野党の登場を期待するのは、夢のまた夢であろうか。

(*) https://president.jp/articles/-/61897

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国葬儀 狂騒曲

2022-09-24 10:13:08 | 時事放談

 故・安倍元首相の国葬儀や、旧・統一教会と自民党の「ずぶずぶ」の関係に対するバッシングが止まない。いずれも野党や左派メディアを中心とするキャンペーンとも言える、いつもの見慣れた光景なので、流せばいいのだが、国葬儀についてはどうにも割り切れない。生前の安倍首相の言動が反対派を大いに煽ったのは事実だが、死してなお、もはや反論はもとより、解散・選挙を実施して圧勝して見せることで実は世論の大半はなお支持していることを示すような機会もないのに、見境なく鞭打つとは、どう見ても尋常ではない。ご本人たちはゲーム感覚(左翼用語で言うところの「闘争」?)なのかも知れないが、人としての慎みが無さ過ぎるように思われる。

 エリザベス女王の国葬こそ「本物の国葬」だと話題になったことで、安倍元首相の国葬儀の位置づけがより明確になったように思う。「本物」ではないのだ。既に通夜も葬儀も済ませられているので、「お別れの会」とでも呼ぶのが相応しい。京都大学の曽我部真裕教授のように、必ずしも法律は必要ないと言われる憲法学者もおられるが、内閣府設置法に言う「内閣の行う儀式」を、憲法7条に言う「国葬」と同様に「国葬儀」と称するのは、海外に対しては分かり易いが、国内では権威者(たる天皇陛下)ではなく権力者に対して「国葬」の語を使う、そのやや時代錯誤にも映る語感が疑念を呼ぶのだろう。当初の説明を繰り返すばかりで工夫がない岸田首相や、判断基準や法の根拠を問い質すばかりで「場」を弁えない野党や左派メディアに欠けていたのは、曖昧に使われる「国葬儀」がそもそもどういう性格のものなのかという「定義」の議論だったのではないだろうか。どう見ても、バラバラな想定、中には古色蒼然とした戦前の「国葬」を(戦前の国葬令は失効したにもかかわらず)連想するような思い込みにより、およそ生産的でない空中戦を繰り広げてきたように思えてならない。支出についても曽我部教授が言われるように、「(なぜ他の首相経験者と違うのかについて説明する必要はあるが)憲法上は予算として予備費を計上した上で内閣の判断で支出し、事後的に国会の承諾を受けるとなっているため、法的には問題ない」(*1)と思う。

 内閣の責任で、国の行事として、弔問外交などと勇ましいことは言い立てずに、ゆかりのある内外の賓客をお招きし、これまでのご厚誼を謝しつつ、しめやかに亡き元・首相の人柄と偉業を偲べばいい。時の内閣が、それを実施すると内外(とりわけ諸外国)に宣言して恥ずかしくないと思えば、そう判断して実施すればいい。十数億という予算を非難する声が挙がるが、単独の外交よりも一度に多くの外交成果が挙がることを思えば高くはない。しかし、あくまで結果としての外交であって、国葬儀を正当化するために外交目的を予め言い立てるようでは興醒めだ。先ずは亡くなった方が主にあるべきで、そういう慎みがあってこその弔問外交であろう。G7からはカナダの首相しか参列しないと揶揄する向きもあるが、安倍元首相の外交成果は、海外関係にあっては、インド太平洋構想を政治的に発信し、伝統的に非同盟のインドを振り向かせたことや、環太平洋におけるCPTPPのような自由な経済秩序を守ったことにあって、その意味では、カナダのトルドー首相、オーストラリアのアルバニージー首相(と、前、元首相)、インドのモディ首相、ベトナムのフック国家主席、シンガポールのリー首相らが参列されるだけでも十分ではないかと思われる。

 こうした私なりのわだかまりをくどくどと吐露するよりも、10日ほど前に日本外国特派員協会(FCCJ)で行なわれた、国葬儀に反対する活動家の方々への海外の記者の素朴な質問の方が余程、今の騒動のいかがわしさをより雄弁に物語るだろう。以下、弁護士ドットコムニュース編集部・記事(*2)から引用する。

 

(引用はじめ)インドネシアの記者からは自国では国家元首が亡くなった時には、反対派も含めて喪に服して尊敬の念を示すと説明。それでもデモをするのはなぜかと問うた。

 高田氏(注:国会前のデモなどを主催する「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の共同代表)は「憲法の精神では、多くの市民が自由に自分の意思を表明することを妨げることは間違い。立憲主義の象徴である国会前で意思表示することが大事です。人の死を悼むことと、安倍さんの政治的な業績を評価すること、自分たちの意思を表明することはそれぞれ別のことだと思っています」と応じた。(引用おわり)

 

 高田氏の理屈はもとより間違っていないが、残念ながら質問に対する答えになっていないように思う。人間社会は理屈だけでは通用しない、品位や慎みといった感情的対応がある。わざわざ自分宛の国葬儀招待状の写真をアップして欠席を表明するような子供じみた対応をして見せた蓮舫氏や辻本清美氏に対して、三浦瑠麗氏が「はしたなく見えるのでやめた方がいいと思いますよ。余計なお世話ですが。」と呼びかけたのも、この文脈での話だろう。

 

(引用はじめ)またデモについては他にも「高齢者が多く若者が少ないのはなぜか」「それでも安倍政権が選挙で選ばれてきたのではないか」などの指摘があった。

 高田氏はこう応じた。「私たち世代は過去の経験から政治が変わると信じているが、今の若い人たちは変わらないことを見てきた。変わることを恐れている。もっと若者と接触して話し合うべき。努力が足りなかった、これは私たちの責任です」(引用おわり)

 

 まっとうな質問に、高田氏は苦し紛れにお答えになったのだろうが、残念ながらこれも答えになっておらず支離滅裂である。

 もとより自由主義国家なので反対意見の表明は自由で、権威主義国家でもない限り大多数が賛成することなどあり得ないし、故・吉田茂元首相の国葬儀でも反対運動が激しかったことからすれば、政治指導者の評価が定まるには時間がかかるのだろう。だからと言って、選挙期間中に凶弾に斃れるという衝撃から間延びする中で、(旧・統一教会問題にも言いたいことはいろいろあるが、長くなるので、機を改めることにして)これらのキャンペーンをせっせと実施することによって、移ろいやすい世論をなんとなく反対寄りになびかせて、世論の過半数が反対する以上、国葬儀は実施すべきではないと主張する構図は、なんとも片腹痛い。清少納言であれば「あな、浅まし」などと嘆かれることだろう。選挙がない「黄金の三年間」を手にしたはずの岸田首相は、政権支持率が急落して、さぞ安倍元首相のご苦労が身に沁みることだろう。いつもの見慣れた光景ではあるのだが。

(*1) https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/88051.html

(*2) https://www.bengo4.com/c_18/n_14995/

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