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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

バッキンガム宮殿にかかる虹

2022-09-10 20:53:03 | 時事放談

 エリザベス女王陛下の訃報が発表された直後、半旗が掲げられたバッキンガム宮殿とウィンザー城に二重の虹がかかったそうだ。神様の元に召されたことを、しめやかに世界に知らしめるかのように。あのAppleも、最新スマホiPhone 14シリーズを発表した翌日にもかかわらず、トップページへの情報掲載を中止し、漆黒の背景に女王陛下の写真をあしらって哀悼の意を表した。エッフェル塔も8日は灯を消した。享年96。

 それほど馴染みがあるわけではないが、時折、接する報道から、若かりし頃は凛として、今もなお気品があり、お洒落でユーモアがあって、何より(失礼を顧みずに申し上げるならば)チャーミングな(日本語に訳すと、お茶目な)おばあちゃんのイメージがある。英国オリンピック委員会の公式ホームページは、女王陛下が国家元首として2度大会を開会したと、思い出を振り返る追悼記事を掲載した(東スポより)。

(引用)

 中でも注目したのは2012年ロンドン五輪開会式で演じた役割についてだ。「英国で最も有名なスパイとの極秘任務が、女王と五輪との長く輝かしい関係を永遠に定義づける。女王は、ダニエル・クレイグの最も有名なボンドガールとして主役を演じた」と記述。クレイグ扮するジェームズ・ボンドにエスコートされ、ロンドンの名所を通過しながらヘリコプターで会場に到着。女王とボンドがパラシュートで降下(実際はスタントマン)し、会場に姿を見せるという演出について振り返った。

 同ホームページによると、開会式を演出した映画監督のダニー・ボイル氏は、最初は女王の役はそっくりさんが務めると考え、バッキンガム宮殿に許可を求めた。しかし返答は「こんばんは、ボンドさん」というセリフを言うことを条件に、女王自身が出演を望んでいるというものだったという。

 さらに、女王のこだわりは相当なもので、自身が出演するということを王室の誰にも秘密にしていた。当日、ボンドがバッキンガム宮殿に女王を迎えに行く映像がビジョンに写ると、王室メンバーはビックリ。あ然としたウィリアム王子は「行け! おばあちゃん!」と叫んだのだという。

(引用おわり)

 なんというエピソードであろう。かつて七つの海を支配し、あの(日本のように)小さな島国が世界の陸地面積の二割を占めて、その繁栄と絡めて「太陽の沈まない国」(地球上のある領土で太陽が沈んでも別の領土では出ている)と言われた、昔日の大英帝国の象徴である。今もなお、イギリスだけでなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドをはじめ、ジャマイカ、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスの合計16ヶ国それぞれが女王を君主としていた(Wikipedia)。この6月には在位70年の祝賀行事プラチナ・ジュビリーに参加され、二日前には静養先である英北部スコットランドのバルモラル城でトラス新首相を笑顔で任命されたばかりだった。

 何しろ70年間も君臨されたのだ。女王陛下に仕えたイギリスの首相は、第二次世界大戦を勝利に導いたチャーチルに始まって現在のトラス氏まで実に15人に上る。日本の皇室とのお付き合いも、昭和天皇、上皇、天皇陛下と三代に及ぶ(天皇、皇后両陛下と上皇ご夫妻は、9日から3日間、それぞれ喪に服されると発表された)。殆ど全てのイギリス人にとって、生まれたときから女王陛下はそこにおわして、長年にわたって親しまれて来た。いや、決して順風満帆ではなく、故ダイアナ妃が亡くなられたときの対応では、国民との間に隙間風が吹いたが、その後、国民との距離を縮めることに心を砕いて来られた。イギリスの紙幣や硬貨にあしらわれている女王陛下の横顔は、そのときどきの風貌に合うように変えられて来たが、今後はチャールズ新国王のものに変わり、国歌の「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」は、今後は「ゴッド・セイブ・ザ・キング」に変わるそうだ。これはこれで、王室が常に国民とともにあるイギリスらしい国柄を感じる。

 天皇陛下が即位後に初となる公式訪問はイギリスと決まっていたが、コロナ禍で延期になっている。ご招待頂いた女王陛下に直接、お礼を伝える機会が永遠に失われ、さぞ無念に思われていることだろう。それもあってか天皇陛下は、原則として国内外を問わず葬儀には参列されることはない(外国王室の葬儀には皇族が出席)にもかかわらず、此度の女王陛下の国葬に参列される方向で調整が進んでいるようだ。

 その国葬は、「これぞ本物の国葬」と(安倍元首相の国葬に絡めて)揶揄する声が挙がったが、まったく、品がないったらありゃしない。王室は権威であって、(政治)権力とは異なる。国を思う気持ちは、イギリスの王室にせよ日本の皇室にせよ、無私の精神であって、とても(政治)権力が及ぶところではない。王室を政治と比較すること自体がおこがましいのだ。王室に対しても、また政治に対しても、失礼であろう。

 私たちはプラグマティックな世界にどっぷり浸って生きているが、やんごとなき方々の繋がりは伊達ではない。日本の皇室は、ヨーロッパだけではなく、アラブやタイの王室からも敬意をもって遇されている。そもそもヨーロッパの権力政治や王政から離れたところで生きることを決めたアメリカや、皇帝然とする習近平氏なんぞには手の届かない世界で、ある意味で羨ましくてしょうがないだろう。ぎすぎすした権力政治が蔓延る世界にあって、皇室の存在が、とりわけ日本にあっては文化のバックボーンにもなっており、それが1500年もの長きにわたって連綿と続くことを、私は有難く誇りに思う。

 心よりご冥福をお祈りし、合唱。

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ゴルビーの見果てぬ夢

2022-09-04 13:05:49 | 時事放談

 8月30日、ミハイル・ゴルバチョフ氏が亡くなった。享年91。

 私のような世代の者には、東西冷戦を終わらせたことで強烈な印象が残り、感慨深いものがある。何しろ物心ついた頃には世界は冷戦一色で、一見、平和でありながら(実際に、ジョン・ルイス・ギャディス氏のような学者は冷戦を逆説的に「Long Peace」と呼び、日本はアメリカの核の傘の下で平和と高度経済成長を謳歌した)、他方で、何とも言いようがない閉塞感に見舞われていたのだ(などと感じるようになったのは、世界観が広がって国際政治の現実を知るようになってからのことだが)。それだけに、ゴルバチョフ氏の英断は、歴史は変わり得ること、個人が歴史を旋回させ得ることを実感した。そして此度、西側メディアは好意的にゴルバチョフ氏の死を悼んだ。

 しかし、ロシアにあって、彼は、1991年8月にクーデターに遭遇したように、また、1996年のロシア大統領選に立候補して0.5%の支持しか取り付けることが出来なかったように、かつて旧・ソ連邦を崩壊させ、その後の混乱を招いた張本人として、今なお、頗る評判がよろしくない。とりわけ、「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的惨劇」と見做すプーチン氏にとっては尚更である。ゴルバチョフ氏が眠る病院を訪れ、花を手向けたが、葬儀には出席しないのだそうで、最低限の礼節を示しただけだった(という意味では、死してなお安倍氏を公然と非難し続ける日本の野党やサヨク活動家は、プーチン氏以下かも!? 笑)。

 私たちは、ゴルバチョフ氏のことを多少、誤解しているかもしれない。ガチガチのイデオロギーにまみれた旧ソ連邦・共産主義体制の中から、突然変異のように開明的な指導者が現れたと思うのは、余りにナイーブだろう。強権的な体制の中に見えた仄かな光明・・・僅かながらも現実主義的で、もはやアメリカとの軍拡競争には耐えられず、平和を望む理想主義者の一面を覗かせたところを捉えて、過剰に反応し(1990年にノーベル平和賞を受賞)、期待を込めて見誤ったのかもしれない。プーチン氏によってロシア的なものの本質を見せつけられた今となっては、なんとなくそんなことを感じる。

 「ペレストロイカ」は、市場主義(企業の独立採算制など)と民主制を取り入れる「改革」として知られるが、所詮は、ソ連をコミューンという自治組織でつくりあげようとしながら、スターリンに捻じ曲げられたことを批判的に見て、「レーニンに帰れ」と主張するものだったと言われる。「グラスノスチ」(情報公開)を進めたのは、チェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故そのものより、その情報がすぐに上がって来なかった体制に衝撃を受けたせいだと言われる。冷戦構造の中で、「ダモクレスの剣」の如く第三次世界大戦の脅威に晒され、政治学における「勢力均衡」(Balance of Power)ならぬ「恐怖の均衡」(Balance of Terror)の本質をなす核問題が、核戦争ではなく原発事故という形で現実のものとなったのだ。

 彼はあくまで旧ソ連邦の延命を図ろうとしたのだった。しかし、彼がその強固過ぎるほどの手綱を僅かながらも緩めたことによって、一気に崩壊にまで至ったのは明らかに誤算だった。奥様がウクライナ人だったとは言え、ウクライナの連邦離脱には最後まで抵抗したというし、2016年のインタビューでは、改革の後は、生まれ変わった連邦を維持するつもりだったと語っているそうだ。ゴルバチョフ氏と言えども、ロシア的なものから逃れられるものではないのだ。

 学生時代の国際政治学の講義で、中国は、あれだけ広大な国を(とは、地理的のみならず多民族をも意味する)、軍事力だけで纏めることは出来なくて、(民族主義を抑え込む)強烈な(帝国の)イデオロギーが必要なのだと言われたことを思い出す。中国は、その後、天安門事件で自由を求める学生たちを抑圧し、経済的には改革開放を進めながらも、習近平政権で再び政治的・イデオロギー的な社会統制を強化している。中国といい、ロシアといい、過剰な自己防衛は、陸続きで常に他民族の侵入に晒され(現代であればさしづめサイバー空間で異なる体制の情報や文化が流れ込み)、帝国として多くの少数民族を束ねる大陸国家の宿命でもあるのだろう。ゴルバチョフ氏の悲劇は、この点を多少なりとも見誤ったことにあるのではないだろうか。

 ロシア大統領府は、「ゴルバチョフ氏を冷戦終結に貢献した非凡な国際政治家として称える一方、『血に飢えた』西側との和解を目指したことは大きな誤りだったとの見解を示した」(ロイターによる)。今、「プーチンの戦争」と呼ばれるウクライナ紛争が続く中で、ゴルバチョフ氏が亡くなったのは象徴的な出来事のように映る。プーチン氏は、ロシアに残るゴルバチョフ的な緩みを、力づくで木っ端微塵に砕こうとしているかに見える。

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政治と旧・統一教会の闇

2022-08-20 22:37:42 | 時事放談

 何かと旧・統一教会バッシングが喧しい。

 私も、かれこれ40年近く前、初々しい新入生として、「原理研」という統一教会系の反共団体があるから気を付けろと、やかましく言われたものだった。聖書を研究するという、一見、真面目な人達の集まりのように見え、実際に学内で話しかけられた時には、可愛らしい女性だったものだから、暇つぶしに話だけでも聞いてみるかと思ったりもしたが(笑)、結局、断った。同じ頃、小学生時代の親しい友人に久しぶりに会って、誘われて断り切れずに創価学会関係者の話を聞いたことがある。とある家に連れ込まれ、ぐるりとオジサンたちに囲まれて説教され、池田大作氏を神と崇めるかのようなビデオを見せられて、閉口したものだった。いや、旧・統一教会にしろ、創価学会にしろ、末端の方々の健気な思いを否定するつもりはない。

 閑話休題。民主主義社会の政治は、弱小野党の方々が言われるように、庶民の常識が通じることが大事だと思う一方、今は古代ギリシアの素朴な(今となっては田舎の)ポリスではなく、近代産業文明が高度に発達した社会である以上、政治家にはそれなりの専門性が求められると言うべきである。だからこそ私たちは選挙を通して代表者に政治を負託する。しかし、どうも弱小野党の方々は、古代ギリシアのポリスのような素朴な民主政治を求めておられるように見えて、違和感がある。古代ギリシアにあっては、「選挙」のような党派性を排除し、誰彼となく差別のない「クジ引き」で執政を選ぶことこそ民主的だと言われたのだから、現代との違いは歴然とするではないか。

 何が言いたいかと言うと、政治は、庶民感覚から離れて成り立たないのは言うまでもないが、だからと言って、全て庶民感覚で裁けるわけでもない、ということだ。典型的なのが、安全保障や防衛である。庶民感覚から言えば、核兵器は廃止すべきだと思うし、ヒロシマやナガサキの悲劇を二度と繰り返すべきではないと心から願うが、他方、現実の政治に立ち戻ると、日本はアメリカの核の傘に守られており、核を恫喝の手段としかねない中国や北朝鮮に囲まれて、日本政府として核兵器廃止条約に単純に賛同できるものではないこともまた理解できる。また、サクラを見る会で、安倍首相(当時)は私物化したとさんざん批判されたし、そういう側面は多分にあったと思うが、だからと言って、さすがにベテランの政治家として、違法行為をそう易々と犯すわけではなく、全日空ホテル側にも政治家と付き合うオトナの判断があったことだろう。庶民感覚では「アヤシイ」という印象は残るが、恐らく法的に問題はなかったはずだ(実際に野党は攻め切れなかった)。モリ・カケに続き、そんな「アヤシイ」が積み重なって、一部の庶民感覚では許されないという「アベガー」に代表される生理的反応が生まれた(勿論、他方で私のようなへそ曲がりの庶民感覚も一部にはしぶとく残る)。

 そうした文脈から、政治(とりわけ自民党)と旧・統一教会のずぶずぶの関係をジャーナリスティックに騒ぐのを、庶民感覚としては真に受けて眉をひそめたくなる一方、もう一人の私は信用しない。公明党の創価学会と同じように、所詮はお互いに利用し合うドライな関係だろうと冷ややかに割り切って見るからだ。政治にとって、創価学会にしろ旧・統一教会にしろ、宗教的な装いはあるが、所詮は選挙の「票」として頼りにするだけであろう。創価学会や旧・統一教会にとって、政治は権威付けや宣伝効果以外の何物でもないだろうと想像する。それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、だから世間の喧噪を白々しく思う。実態は分からない。もっとも反社会性には別の考慮が必要だが。

 以下は余談である。

 知人から、茂木誠さんのYouTube動画を紹介してもらった(*)。

 茂木さんは動画で、旧・統一教会はシャーマニズムの残滓として、シャーマニズムが何故、日本では廃れて(実は真言密教に取り込まれた)、でも韓国では生き残っているのか(実はキリスト教が受容した)という興味深い問題を提起される。私から補足するとすれば、日本人は極めて「現実主義的だから」だと思う。それは何故かというと、日本人が「自然と対峙してきたから」であり、かつ異民族と接触することなく、「人を信用する社会だから」ということになる。

 私は30年以上の社会人生活の殆ど全てを海外とのやりとりに費やして来た。そうは言っても、数えてみたら、海外生活9年、訪れた国は20数ヶ国程度、往来は100回足らずで、中東・アフリカ・中南米には足を踏み入れておらず、偏りがあって限られたものだが、それでも一つ、教訓として残すとすれば、海外にあっては「油断ならない」ということだ。逆に言うと、日本は安心して暮らして行ける社会だということでもある。これが私なりの生理的な実感である。

 ある外国人がパソコンを電車内に置き忘れて見つかったので驚いた、という有名な話がある。私も、実際に酔っぱらった帰宅途上の電車内で携帯電話を落としたことに気づかず、後日、見つかって感謝したことがある。最近、タリーズで、スマホをテーブルに置いて席取りする若者を見て、びっくりした。たまたまネットで見かけた記事によると、外国人も同じように驚いているようだ。これが日本ではなければ、スマホは盗まれてオシマイだから、当然だろう。私が海外で「油断ならない」ということとの裏腹の、安心できる社会の所以であろう。

 これらの事象を説明するために言えることは、日本という島国が、殆ど全く異民族と接触することがなかったから、ということになる。言いようによっては「お人好し」、仮に赤の他人であってもお互いを信じる習性が育って来た。東日本大震災などの大災害では、アメリカのハリケーンなどの大災害のときと異なり、世界が驚嘆したように、人々の間で略奪が(殆ど全く)起こらず、整然と配給を受けたことに表れている。ほぼ単一民族だから、という言い古されたことでもあろう。

 さらに、日本人は、「地震・雷・火事・台風」という自然災害と対峙して来た。これらは人智によって避けられるものではないため、結果として日本人に典型的な「諦観」を生んだのだろうと思われる。ある時までは、呪術、シャーマニズムなどに依存したのだろうが、文明の進展とともに、人々は「現実」として受け止め、尋常ならざる世界から離れて行ったのではないか、と。

 自然災害に典型的に見られるように「運命」として受けとめる、とは、潔い立場に繋がる(しかし、これは現実の国際社会にあっては明らかにマイナスである)。つまり、島国の日本人にとって脅威とは「自然(災害)」であって「人(異民族)」ではなかったということだ。他方、大陸国家にあっては「人(異民族)」こそ災厄であって、これは日本人とは対照的である。

 また、韓国には中産階級が存在しなかったとの説明があった。重要な指摘であろう。これは、日本が韓国を併合し、西欧の植民地政策と異なり、国内の延長として投資し(実際に、当時、韓国を所管したのは内政を司る省庁であって、植民地政策などはなかったと言ってよいし、より正確には、1919年の三・一独立運動以降は、さすがの日本も武断政治から文治政策に転換した)、急速な近代化をなし遂げるための基盤を築き上げ、更に戦後「償い」としての日本の経済支援により、「漢江の奇跡」と呼ばれる上からの高度成長を成し遂げたことによる弊害ではないかと思われる。日本のように、一見、欧米の刺激を受けて上からの近代化を迫られたように見えるが、実は江戸時代を通して資本を蓄積し、市民社会を成熟させ、エコな発展を遂げていたのとは対照的だ。これは、韓国にとって、ある意味で悲劇であって、同情できる余地があるのかも知れない。結局、韓国では人為的な成長によって近代化を成し遂げた一方、社会基盤的にはシャーマニズムのような前近代的な風習が色濃く残った、ということではないかと思う。

 そんな韓国にあっては、後れて来た愛国心を自制できるまで、もうしばらく成熟するのを待つしかないと思う一方(というのは実は中国も似たようなところがあるのだが)、中国が大国化し、「人」に揉まれて来た(という意味ではヨーロッパ的でもある)習性からすれば、ピュアな(という意味ではまさに神道的な)日本人が中国と対峙するのは容易ではない。日本では例外的とも言える戦国時代のような権謀術数的な対応が求められることだろう。そういう政治家がいるのか・・・安倍氏亡きあと、甚だ心許なく思うところだ(なお、念のために申し上げると、安倍氏は日本人らしくピュアでありながら、現実主義的で、国際社会にあっても「人たらし」で外国人を惹きつける天性の政治家だった、ということであって、大陸的には当たり前な「人が悪い」ということではない)。

(*) https://www.youtube.com/watch?v=RE4iP8vRSJM

    https://www.youtube.com/watch?v=SHDoIqFHhh8

    https://www.youtube.com/watch?v=LgDgFz5LcGc

    https://www.youtube.com/watch?v=ELlEdigQr5g

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安倍元首相の国葬を巡って

2022-07-23 12:22:27 | 時事放談

 あれから二週間になるが、安倍さんが亡くなったという現実を今なお受け止められないでいる。恐らく受け止められないまま時の流れとともに風化していくのだろう。

 昨日、国葬が閣議決定されたが、世間はその是非を巡って揺れている。天国の安倍さんは、何もそこまで・・・と苦笑いされていることだろう(笑)。私も、国葬でも国民葬でも内閣・自民党合同葬でもいずれでも構わなくて、国民として安倍さんを悼む気持ちに変わりはない。もちろん国葬に値する方だったとも思う。

 状況が人を作るところがある。知り合いの自衛隊の元幹部は、戦後日本の骨格を形づくった経済重視・軽武装の吉田ドクトリンを褒めそやし、吉田茂を殆ど神格化するような、元軍人さんなのに今なお専守防衛を旨とする稀有な方で、愛嬌があるのだが、それに対して私は、あの「状況」で(とは敗戦国の立場で、しかも焦土と化して、その日の暮らしにも困るような、財産・資産としてヒトたる国民しか残っていないような「状況」で、の意)アメリカを相手にケツをまくった度胸は大したものであるにしても、経済重視・軽武装の戦略自体は殆ど他に選択肢はなかっただろう(つまりは吉田さんご本人と言うより「状況」が作った戦略)と負け惜しみを申し上げている。吉田茂を戦後日本の偉大な創業者と捉えるならば、安倍さんは後の世で中興の祖と呼ばれるようになるのではないだろうか。その意味で、安倍さんは吉田茂に対してなされた国葬に値すると思う。「失われた20年」と言われた閉塞した「状況」で、日本の国際的地位を高め、経済的には不発のところがあったが、若者の就業機会を高め、前向きな空気を作った功績は大きい。何よりも「自由で開かれたインド太平洋」構想は、安倍さんの独創ではないし、構想自体は似たような形でいろいろな方が唱えてきたにしても、それを政治的に世界に向けて発信し、今や大国アメリカ独自の戦略構想であるかのように主張する地域秩序観にまで高め、伝統的に非同盟のインドをも巻き込むQuadが(道半ばにしても)動き出し、地理的に離れたイギリスやEUまでもが注目する「状況」を日本が作り出したというのは、これまでの歴史になかったことだ。そして、TPPからアメリカが離脱してなお、CPTPPを纏め上げ、具体的な形で自由な交易秩序を守り抜いた。中国が台頭する時代に、今後、こうした構想や枠組みは益々その重要性を増すだろう。また、その過程で、アメリカにトランプ氏という異形の大統領が就任した「状況」が、安倍さんの立場を高めることに作用した。世界中の首脳がトランプ氏の取り扱いに苦慮する中で、安倍さんはいち早く懐に飛び込んで信頼を勝ち取り、アメリカ政府高官から、トランプ氏に直接言いにくいことを安倍さんから言って欲しいと頼られるまでの存在だった。人たらしの安倍さんの面目である。アメリカが混迷する一方、洋の東西で、ドイツにメルケルあり、日本に安倍あり、という黄金時代を現出した(というのは褒め過ぎか 笑)。

 報道によると、国葬を巡って、公明、日本維新、国民民主は概ね理解を示すが、立憲民主、共産、社民、れいわ新選組は「説明が不十分」などと反対の声を上げているという。相も変らぬ、たとえば安保法制や特定秘密保護法で天地がひっくり返りかねないと大騒動になったときと同様の構図だ(それで、天地はひっくり返らなかったし、ついでに言うと、憲法改正を発議できる勢力分布でもある)。反対するのは、安保法制を「戦争ができる国」にするものと決めつけ、長年、国際政治学者が真摯に探究を重ねて来た「抑止」なるものを理解しようとしない人たちである。もはや理屈ではなく、生理的に反発しているとしか思えない。それとも、民主主義の基本である「話し合い」と「歩み寄り」ではなく、左翼の人たちが叫びがちな「闘争」や「勝ち負け」に拘っているのだろうか。「国葬」とする説明を尽くすことは大事だが、いくら説明しても理解を得られることはないだろう。橋本五郎さんが言われるように、「反対する人はどっちでも(国葬でも国民葬でも合同葬でも)反対する」ことだろう。なんだか情けない状況である。

 自民党内には、「保守層との対立を避けたい岸田首相の思いと、国葬で訪れた各国首脳と会談し、後継者は自分であると印象付けたい」と得意げに解説する声がある(J-CASTニュース)。そういう見立ては分からなくもないが、後継者に相応しいかどうかは周囲が決める。むしろ、国際社会の反応が思った以上に大きいことと、天皇皇后両陛下の思いに後押しされたのではないかと思われる。

 一つ目、国際社会の反応が予想以上にポジティブなのは、2年前に安倍さんが首相を辞任されたときと同様、国内でその功績を評価するにあたって賛否が割れたのとは対照的だった。国内的には民族主義者で、国際的にはリベラルな国際秩序を守る国際協調主義者であることが、安倍さんの中では矛盾なく共存しているが、こうした国内と海外とで映る姿が異なることが、異なる反応を呼んでいるのだろう。国内では大きく報じられることはなかったが、アメリカ上院は三日前、安倍さんをたたえる決議案を全会一致で採択し、「一流の政治家で民主主義の価値の擁護者」「日本の政治、経済、社会、そして世界の繁栄と安全保障に消し去ることのできない足跡を残した」と評価した(産経新聞)。それだけではなく、米国では10日の日没までの間、ホワイトハウスをはじめ全ての連邦政府庁舎や在外公館、国内外の米軍施設などで半旗を揚げた。これだけなら、アメリカにとって安倍さんがプラグマティックに都合の良い存在だったに過ぎないとの批判があるかも知れない。しかし、インドは事件の翌9日、一日中、国を挙げて喪に服した。ブラジルも8日から全土で3日間の服喪を行った。香港では、在英日本大使館に弔問の列ができた。台湾では11日、中国の傀儡と揶揄される国民党を含めて、当局機関や公立学校で半旗を掲揚した。各国首脳から届くメッセージは、飽くまでもプロトコルに沿った儀礼的なものであって、勿論、その中には真意が込められたものもあるだろうが、それよりも、実際の行動で個別に示されることの意義は大きい。

 二つ目、天皇皇后両陛下が首相経験者の葬儀に侍従を派遣することは滅多になく、昭和の岸信介氏、平成の小渕恵三氏に次ぐケースと言われる。通夜の日、宮内庁次長は定例会見で「天皇皇后両陛下は安倍元総理の突然の訃報に接し、大変残念に思い、心を痛めておられ、ご遺族の皆様の悲しみを案じていらっしゃるのではないかと拝察している」と、わざわざ述べられた。さらに両陛下は(一般の香典に当たる)祭粢料・供物・生花を贈られた。大物政治家などの著名人の葬儀の祭壇では、並べられた供花に数多くの名札が立つのが通例だが、安倍さんのご自宅ではたった1つ、「天皇皇后両陛下」の名札しか置かれていなかったそうだ(NEWSポストセブン)。勿論、多くの方から供花が贈られたことだろうし、余りに多くて捌き切れなかったのかもしれないし、両陛下の名札を一緒に並べるのは畏れ多いと判断されたのだろうが、安倍さんと両陛下との特別の関係を想像させる。実際、雅子さまの実父・小和田恆氏は福田元外相・元首相の知恵袋と言われるほど信頼され、その福田派の後継者と目されたのが安倍晋太郎氏で、つまり雅子さまと安倍さんは、お父ちゃん同士が福田政権を支える名コンビだったという浅からぬご縁があり、安倍さんは父上の秘書官としてたびたび小和田邸を訪れることがあったという(同紙)。

 いずれにしても、こうして日本の社会で見られる分断は、どうしたものかと、むしろそのメカニズムに興味を持つ。SNSという特異な環境が輪をかけている側面もあるが、基本的には戦後日本の社会のありようを究明することと同義のように感じている。そうして、稀有な政治家を亡くした喪失感と、その余りに野蛮で驚くほど簡便な手法(自衛隊の元幹部のおっちゃんは、その銃を鉄製の花火だと説明してくれた)に衝撃を受け、某宗教団体との関係等を追及するばかりの(あるいは容疑者に関する怪しげな精神分析を垂れ流すばかりの)メディア報道の不毛に呆れて、打ちのめされそうになりがちな気を紛らせるのである。

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安倍元首相 凶弾に倒れる

2022-07-10 10:29:28 | 時事放談

 安倍晋三元首相が、一昨日、近鉄・大和西大寺駅前で街頭演説中に銃弾を受けて絶命された。享年67。信じられないほどあっけない、唐突な出来事だった。

 その日の昼食時、会社の食堂にあるテレビ前の席がやたら混んでいたのは、私がいつもよりちょっと出遅れたせいではなく、皆、テレビを食い入るように見つめていたせいだった。

 ロシア・プーチン氏のウクライナでの無差別殺戮がとても21世紀的ではなく、19世紀的あるいは20世紀初頭的な野蛮さで、やり場のない怒りを募らせたように、安倍さんの殺害も、凡そ21世紀的ではない、戦前の政治家暗殺かテロを思わせて、やり場のない怒りに震えた。実際に、戦前を連想させて社会不安を煽る報道もあった(小沢一郎氏に至っては、自民党の長期政権のせいにしたのは、論外)。しかし、どうやら容疑者には政治的な動機が乏しいようで、テロや暗殺と呼ぶほどのものではなさそうだ。背後に組織(さらには外国勢力)の気配も感じられない。強いて言えば、一個の孤立した狂気に過ぎなくて、それだけに却って安倍さんという稀有な政治家を失う無念さが否応なしに増してしまう。

 日本の政治を褒めることは滅多にない私だが、職業政治家ばかりの(との意味するところは政局や選挙のことが頭の中の8割方を占める)世の中で、安倍さんには、二世(三世)政治家であっても、否、むしろそれ故にと言った方が適切かも知れない、選挙基盤が盤石だったことに助けられて、政治家の本懐とも言うべき「意志」を貫く姿勢が感じられて、好ましく思って来た。集団的自衛権が公明党に妥協して中途半端な限定行使になったのも、改憲が公明党に妥協して加憲などと中途半端なものになっているのも、また度重なる韓国の非道の上に慰安婦合意をまとめたのも、不満で物足りないところではあるが、安倍さんという保守政治家だからこそ、リベラル左派のみならず保守派の不満をも抑えて成し得たものだった。いずれも論争を惹き起こす難しいテーマで、避けたがる政治家が多いはずだ。

 そして、保守色が濃いだけに、毀誉褒貶も激しかった。一国の首相たる安倍さんがそこまで関わるものかと疑われるような些事に至るまで、野党とリベラル左派メディアの追及はねちっこく、結果としてグレー(アヤシイ)のままで残るという印象操作が公然と行われ、アベガーなる現象を惹き起こした。私は常日頃、ホリエモンの言動に賛同することは少ないが、此度の彼の(いつもより慎重な)呟きには賛成しないわけにはいかない。

「今回の件、全貌はつかめておりませんけど、殺意があって安倍さんを殺そうとしたと犯人は言っているということで、僕はSNSの影響とかで安倍さんが悪者である、正義の鉄槌を下さなければいけないみたいな考えなんじゃないのかなと考えるとですね、やはり安倍さんを悪者扱いしているようなSNS、マスコミの言動をあおってる人達、いわゆるアベガーという人たち、僕はその人達の影響が大きかったんじゃないかと断定はできないけれど、私はそういう風に予測しております」「SNSの影響力が今、ものすごく強くなっていること。これが、社会に与える影響。本当に昭和初期の高橋是清さんが暗殺されましたけどもそれ以来の首相経験者の銃撃ということで非常に由々しき事態だし、雰囲気悪くなってくると思うんですけど、これもSNSの作り出した闇なのかなと私は考えております」(*)

 海外の報道には、まるで安倍さんが社会の分断をもたらしたかのような解説もあったが、恐らくそれは国内リベラル左派メディアか左派学者の言い分を引用したものだろう。誰が、と言うのであれば、罵詈雑言を浴びせたリベラル左派の方であろうし、より建設的に言うならば、SNS社会が生み出すこうした「状況」をこそ憂うべきだろう。

 歴代最長政権を以てしてもなし得なかった課題を残したまま先立たれるのは、さぞ無念なことだろう。私は今も信じられないでいるのだが、その大き過ぎるほどの喪失感にこれから苛まれ続けることだろう。それは、安倍さんという政治家に期待し、頼り過ぎていたことを嫌と言うほど思い知らされることでもある。残された私たちの責任は重い。

 心の整理はつかないままながら、心よりご冥福をお祈り致します。

(*) https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/07/08/kiji/20220708s00041000547000c.html

 

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Gゼロの世界

2022-07-02 20:20:50 | 時事放談

 数日前の日経に秋田浩之氏のコラムが掲載された。題して「そして3極に割れた世界 協調嫌がる『中立パワー』台頭」(*)。

A SEAN諸国からは、かねて「親米か親中かの色分けをしないで欲しい」「同様に、日中のどちらを取るのかといった踏み絵を踏ませないで欲しい」「日中関係を安定させてほしい。できれば経済と政治を切り分けて運営して欲しい」という声が挙がっていたとは、船橋洋一氏の著書(2020年2月)からの引用である。似たような内容は、グレアム・アリソン教授がリー・クアンユー氏にインタビューした著書(2013年10月)の中でも触れられていた。何も今に始まったことではない。

 秋田氏が指摘される通り、オバマ大統領(当時)は、2012年8月、シリアのアサド政権に対して、化学兵器の使用は「レッドライン」だと警告しながら、翌13年、同兵器が使用されても軍事介入せず、同年に「世界の警察」を担わないとも宣言して、14年、ロシアによるクリミア併合を招いたのは間違いないところだ。更に続くトランプ大統領(当時)はアメリカ・ファーストを掲げ、同盟を蔑ろにすらした。

 秋田氏によれば、東南アジアにとってロシアは最大の兵器供給国であり、アジア外交筋によると、ロシアは東南アジアの国々に対し、西側のロシア非難に同調すれば、兵器部品の供給を止めると水面下で脅しているそうだ。確かに硬軟織り交ぜて発展途上国をたぶらかせるのは、ロシアだけではなく中国を含めた権威主義国がやりそうなことだ。

 こうして、秋田氏は、西側世界と権威主義世界との間で、どちらにも与しないインドや南アフリカ、インドネシア、トルコ、ブラジルといった「中立パワー」が台頭し、3つの異なる勢力がせめぎあう三極化の秩序を描かれる。しかし、だからと言って秋田氏が言われるような「無極化ではない」ことにはならないだろう。第三極の存在を許すこと自体、もはや二極のいずれにも統制出来ない「無極化」のあらわれでしかなく、イアン・ブレマー氏の主張が否定されることにはならない。秋田氏が言われる三極は無極の一類型でしかないと思う。

 私たちは既に、アラブの春でも、イラクでも、アフガニスタンでも、苦々しい経験とともに学んだはずだ。自由・民主主義の実践以前に、社会の安定が必要な社会があることを。自由・民主主義を成り立たせるものは、もとより統治者のリーダーシップではなく、主権者たる被統治者の同意であり負託である。敢えて言うが、そのような民度を熟成させるのは、歴史的な経験を措いて他にない。中国やロシアはもとより、日・米・欧を除く世界に、残念ながらそのような歴史的な経験はない。

 もっと俗な言い方をすれば、「衣食足りて礼節を知る」ということだ。西側は、そのような世界に対して、粘り強く対応して行かなければならない。

(*) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD22A350S2A620C2000000/

 

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ロシアの被害者意識

2022-06-13 21:42:40 | 時事放談

 前ウクライナ大使(2019年1月~2021年10月)の倉井高志氏が、数日前、ロシアの国柄やプーチン氏の特性についてプレジデント・オンラインに寄稿されたのを興味深く読んだ(*)。本ブログのタイトルは、倉井氏のコラムからキーワードとして拾ったものだが、私自身は「被害者意識」というようなお行儀の良い形容ではなく、端的に「被害妄想」だと思っている。それはともかくとして・・・

 件のコラムで、倉井氏は、かつてソ連の軍事問題の大家と言われたジョーン・エリクソン教授の下でソ連軍研究に携わったときに、「ソ連を理解するためには世界からソ連がどう見えるかではなく、ソ連から見て世界がどう見えるかを考えなければならない」と言われたとか、少なくとも9-11同時多発テロのときには、プーチン氏はアメリカに真っ先に協力を申し出たのに、アメリカのABM条約からの脱退(2002年)、ジョージアのバラ革命(2003年)、ウクライナのオレンジ革命(2004年)などを通して、「『米国に裏切られた』とするプーチン大統領の強い思いが、KGB要員としてさまざまな秘密工作活動に携わってきた経験とあいまって、うかうかしているとロシアは米国、NATOに支配されてしまう、ロシアは自らを守るため軍事力を一層強化し、自国の安全を確保するための戦略環境を構築していかなければならない、との意識を強く抱かせることとなったと思われる」とか、「ソ連時代に『パラノイア』とも言われた過剰なまでの防衛意識、常に自分たちは外部から攻撃を受けるリスクに晒されていて、軍事力を強化しなければこちらがやられてしまう、という被害者意識は、一定程度現実の歴史に裏打ちされている面もあり、仮に今後、プーチン大統領以外の指導者が出てきたとしても、この認識が大きく変わるとは考えにくい」とも語っておられる。

 以前、本ブログで、中国が日本の南京事件(事実として、被害者数の桁が違うようだし、ゲリラ=便衣兵も多い中で、少なくとも「大虐殺」と呼ぶのは不適切だろう)を非難するのは、城塞内の敵を虐殺するのが当たり前の歴史的経験が前提としてあるからで、ところが日本にはそんな歴史的経験も、そもそも中国などの大陸国に特有の城塞構造の街すらもない島国であることを、中国は知らないのだろう(だから事実として大虐殺があったとは考え難い)と書いた。カラー革命はCIAなどの西側の策謀があったとする陰謀論をよく聞くが、東ドイツ駐在時と帰任時に、東ドイツとソ連という国家が崩壊する悲劇的局面に遭遇したKGB工作員のプーチン氏だからこそ、相手(敵)も同じように行動すると読む(すなわち陰謀があったと見做す)のだろう。そもそも広大な領土を誇るロシアには、タタールの軛の歴史以来、包囲されている感覚、攻め込まれる恐怖があるというお国柄の上に、プーチン氏に特有のメンタリティが重なる、というわけだ。もっとも完全な陰謀論だと言うつもりはない。オレンジ革命やマイダン革命において、西側の何等かの関与があったことは事実のようだが、それが結果としてどの程度の影響があったのかはよく分からない。

 閑話休題。外交官は(倉井氏のような)「事情通」でなければならないと思う。私がいた会社にも、地域や製品事業についての「事情通」が多く、そのためにやや事業が停滞したようなところがあった(笑)。企業では「事情通」がえてして抵抗勢力として弊害をもたらすことがあるが、外交・安全保障の世界ではむしろ保守的である方が望ましいように思う。そして、倉井氏の思いは、半世紀以上前に外交官だったジョージ・ケナンに通じるものがあるように思う。だからこそ、ケナンはNATOの東方拡大に反対したのだった。それは政治技術的には全く正しい、と思う。

 だからと言って、ロシアによるウクライナ侵攻はアメリカが撒いた種だと、今、ミアシャイマー教授が唱えるのは、(文藝春秋6月号のインタビュー記事にもあるように)容易いことではあるが、大国政治をそのまま認めて、現実主義どころか余りに現実追随主義で、庶民感情としてはなかなか納得できるものではない。

 このあたりの葛藤は、私の中でなかなか解消されることはないのだが、このウクライナ戦争は私だけでなく日本人全般にとってロシア研究にうってつけの題材となっていることは間違いないところだろう(ウクライナの不幸を前にして、甚だ不謹慎ではあるが)。

(*) https://president.jp/articles/-/58281

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まだ青春真っただ中

2022-06-07 23:32:33 | 時事放談

 この表題は、今月4日未明、世界最高齢となる単独無寄港の太平洋横断を果たされた海洋冒険家の堀江謙一さん(1938~)の言葉だ。子供の頃に見かけた(読んだわけではない)著書『太平洋ひとりぼっち』(初版1962年)のことが浮かんで、今なおご活躍されていることに驚いた。

 今からちょうど60年前、日本人として初めて小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断(西宮~サンフランシスコ)に乗り出されたとき、Wikipediaによると、「当時はヨットによる出国が認められなかったため、『密出国』という形」になり、「家族から捜索願が出されたことを受け、大阪海上保安監部は“自殺行為”とみて全国の海上保安本部へ“消息不明船手配”を打電し、不法出国問題より、救助を先決にしていた」そうだ。そして、当時のサンフランシスコ市長が「『コロンブスもパスポートは省略した』と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ」、「1か月間の米国滞在を認めるというニュースが日本国内に報じられると、日本国内のマスコミ及び国民の論調も手のひらを返すように、堀江の“偉業”を称えるものに変化した」そうだ。「その後、帰国した堀江は密出国について当局の事情聴取を受けたが、結果、起訴猶予となった」という。

 今回は、当時とは逆のコースで太平洋横断を果たされたわけだが、未曾有のコロナ禍で、「出発地点へヨットを運ぶ運賃が『10倍に』」なり、「ワクチン接種や陰性証明がないと出国できない」「いつストップがかかるか、薄氷を踏む思い」だったという(神戸新聞)。

 表題にある「青春」については、サミュエル・ウルマン(1840~1924)が70代で書いた詩「Youth(邦訳:青春の詩)」の冒頭の一節、"Youth is not a time of life; it is a state of mind"(青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ)が有名だ。この詩を気に入ったダグラス・マッカーサーが、「マニラで、のちには東京でも、執務室の壁に詩のコピーを額に入れて掛け、また講演でもたびたび引用した」(Wikipedia)ために、日本でも流布するようになったと言われる。

 しかし所詮「青春」なる言葉は老人(のための)用語だ、とは言い過ぎだろうか。我が身を振り返っても、「青春」まっ盛りの頃に「青春」を意識することなどなかった。せいぜい「人生の或る期間」をゆうに過ぎ去った後に、(年甲斐もなく)青春してるねえなどと茶化す程度だろう。他方で、自分や周囲を眺めると、老いるほどに狭量になり頑固になり依怙地になりがちで、これじゃあ扱い難くてしょうがないから(苦笑)、なるべく精神の柔軟性を失わないように、「心の様相」を保つ努力を続けたいものだと老人は思う。

 件の詩の数行後には次のような一節もある。「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。」 ウルマンやマッカーサー元帥はこうして自らを鼓舞されたことだろう。堀江さんや、80歳でエベレスト最高齢登頂者となった三浦雄一郎さんにこそ相応しい「心の様相」だ。足元にも及ばないが、心の片隅にその種火を絶やさずに灯していたいものだと思う。

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デジタル安全保障

2022-06-03 01:45:12 | 時事放談

 ウクライナ戦争はローカルな戦いだが、その帰趨は戦後の国際秩序を左右するかも知れない。欧米は間違いなくそう思っていて、他方で、ロシアはプーチン氏本人の威信が掛かるから、お互いになかなか譲れない。

 かつての冷戦は「資本主義」対「共産主義」のイデオロギーの争いだったが、この第二次冷戦(と言ってもよいならば)は「欧米」対「反欧米」の秩序の争い、あるいは(よく言われるように)体制間競争になるのだろう。ウクライナ戦争では、欧米が築いてきた戦後秩序(あるいはモダンからポスト・モダンへの時間の流れ)があからさまな挑戦を受けた。彼らは、これまでブログでさんざんボヤいて来たように、「人権」や「xxの自由」の捉え方から時代認識まで明らかにズレて、文化摩擦と言ってもよいほどで、まともな会話が成り立たないのではないかと心配になる。

 そんな難しさの一端を、数日前の日経ビジネスが素描しているのが興味深い(*)。

 インターネットについて、孫正義さんは、かつて、蛇口をひねったら水が迸り出る水道管のように、ふんだんにデータが流れるインターネット(の土管)をあまねく整備したい、というようなことを言われていた。それが実現した今、せいぜい水漏れする程度の水道管と違って、インターネットは四六時中、サイバー攻撃の脅威に晒されている。そんな中、欧米のIT企業が撤退したロシアでは、IT機器やシステムへのサポートが受けられず、このままサイバー攻撃対策(セキュリティ・パッチの適用など)が行われなければ、深刻な脅威に晒されると、プーチン氏は焦っているらしい。先ほどの日経ビジネスの記事では、このあたりの事情を「デジタル安全保障」と呼んでいる。

 世界と繋がるネットワーク社会にあっては、データが漏洩するだけでなく、電力・通信などの重要インフラが無力化されかねないため、悪意ある国(例えば中国やロシア)製のネットワーク機器を使うことはリスクだと言われて久しいが、逆の立場のロシアで、安全保障観を異にする国のIT技術に依存するリスクが顕在化したのは、実に皮肉なことだ。実のところ、ロシアに対する経済制裁は余り効いていないのではないかと訝る人もいれば、いや、これから益々厳しくなると強がる人もいる。今のところ、ロシアには石油・ガスなどのエネルギー収入がある上、2014年以来、欧米社会に依存しない自給自足の経済に抜かりなく転換して来たため(それがある程度成功したのは、極貧の北朝鮮とまでは行かないまでも、欧米ほど豊かではなく、モノも潤沢ではないお陰と言える)、痛みを感じにくいかも知れないが、経済安全保障に言う「戦略的自立性」に欠けるハイテク領域は、ロシア経済の泣き所であろう。

 今や日常生活に不可欠なネットワークだが、水道管のように、せいぜいちょっとばかり(ちょっとどころか、マレーシアの老朽化した水道管は4割とか5割とも言われたものだが)漏洩する程度という安全なインフラにならないものだろうか・・・

(*) https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00132/052600022/

 

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バイデン大統領の日・韓歴訪

2022-06-01 20:07:47 | 時事放談

 もはや旧聞に属するが、バイデン大統領が日・韓を歴訪したことに触れておきたい。

 日本より先に(と画策した通りに)韓国の地を訪れたことを、韓国メディアはことのほか喜んだそうだ。中身はともかく外観やメンツ(端的に対日優位の体面)に拘る韓国らしい。数日前の日経は、「米韓の技術同盟をさらに発展させる」と言ったバイデン氏の訪韓は、「サムスン電子で始まり、現代自動車で終わった」と、象徴的に表現し(*1)、訪日にあたって日本企業を訪れることはなかったことから、「米国の経済安全保障において、日本の相対的な地位が低下していることの表れと捉えることもできる」と冷たく言い放った(同)。鋭い指摘だ(私たちが訪韓に関心がなかったのもまた事実だが)。

 韓国は、新たな経済連携IPEFについても韓国で発表することを画策したらしいが、さすがに叶わなかった。韓国観察者の鈴置高史氏によれば、中国を忖度する韓国は、「米国の裏をかく作戦を練って」いて、「IPEFに創業メンバーとして入ることで発言権を確保し、対中包囲網の色合いを薄める」、言わば獅子身中の虫(NATOの中のトルコのような存在)になることを狙っていると分析され(*2)、完全否定できないところが悩ましい(笑)。そこに韓国の置かれた現実、アメリカにとっての韓国と日本の位置づけの違いが表れているように思う。米・韓は、先ずは経済ベースの実利の関係、日・米は、既にQUADに見られるようにルール・メイキングを通した安全保障を含む価値観を共有できる関係にある。確かにIPEFでは、ASEANの7ヶ国を呼び込むためには、対中包囲網の色合いを消す必要があり、台湾を排除せざるを得なかったと言われる(台湾も残念がった)。その意味でも、台湾に次ぐ半導体産業を擁する韓国の存在は、サプライチェーン強靭化を目指すアメリカにとって不可欠の構成要素だったことだろう。

 今回は、アメリカでは同盟関係を軽視したトランプ氏に代わってバイデン氏が大統領職に就いてから、韓国・大統領として、国益を考えていたとは思えないような親中・従北の独善的な外交を進めた文在寅氏が退いて、保守派から尹錫悦氏という、ようやくまともな相手になり得る大統領が登場したタイミングだった。米韓同盟再建を図り(その実、対中傾斜に釘をさし)、日韓関係改善を促す、恰好のタイミングでもあったのだろう。もっとも、米・中の挟間で揺れる韓国の二股外交は地政学的に同情の余地がないわけではないし、韓国における反日は、建国神話として韓国社会に構造的に埋め込まれたもの(韓国憲法前文の通り)で、IPEFにしてもQuadにしても、アメリカは韓国に期待しつつも、そう簡単に気を許すわけには行かないだろう。いい加減、韓国には目を覚まして欲しいものだ。

 しかし以上は前座でしかない。昨年来、定例化されたQuad首脳会合が、日本で初めて開催され、オーストラリアの新首相を交えて、4人が顔を合わせて連携強化を確認した。

 また、バイデン訪日では、台湾有事が起きた場合に、アメリカが軍事的に関与するかと問われて、「それがわれわれの約束だ」と答えたことが物議を醸した。バイデン氏の舌禍は、昨年8月と10月に続いて三度目で、もはや認知症のせいではなく確信犯だろう。直後にホワイトハウスが「台湾政策に変更はない」と釈明するのも同じく三度目だ。そろそろ「曖昧戦略」を見直すべきとの(リチャード・ハース氏などの)声が高まる中で、「あいまい」の枠内ぎりぎりのところで最大限の対中抑止を図ろうと見せているように思える。

 こうして、現下のウクライナ危機に対処しつつ、アメリカがインド太平洋への関与をアピールする良い機会となった。しかし、実質が伴うにはまだまだ時間がかかりそうだ。IPEFは、関税問題がアジェンダから外され、アメリカ市場の開放など、参加するASEAN諸国にとって実利が見えないし、Quadは、もともと非同盟主義のインドを取り込んだのは快挙で、対中牽制を軸に、四ヶ国連携の体裁をぎりぎり保ってはいるが、新興国(というより明確に途上国)の立場で、地政学的にロシアに宥和的なインドという不確定要素を抱えて、とても盤石とは言えない。中国が、太平洋島嶼国10ヶ国の外相との会合で提案した貿易と安全保障に関する声明は、合意には至らなかったものの、Quadの動きを分断するかのような中国の南太平洋での暗躍は油断ならない。インド太平洋は、依然、波高し、というところだろうか。仲介者としての日本のなお一層の働きが期待される。

(*1) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM23CU00T20C22A5000000/

(*2) https://www.dailyshincho.jp/article/2022/05311701/?all=1

 

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