風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

国葬儀 狂騒曲

2022-09-24 10:13:08 | 時事放談

 故・安倍元首相の国葬儀や、旧・統一教会と自民党の「ずぶずぶ」の関係に対するバッシングが止まない。いずれも野党や左派メディアを中心とするキャンペーンとも言える、いつもの見慣れた光景なので、流せばいいのだが、国葬儀についてはどうにも割り切れない。生前の安倍首相の言動が反対派を大いに煽ったのは事実だが、死してなお、もはや反論はもとより、解散・選挙を実施して圧勝して見せることで実は世論の大半はなお支持していることを示すような機会もないのに、見境なく鞭打つとは、どう見ても尋常ではない。ご本人たちはゲーム感覚(左翼用語で言うところの「闘争」?)なのかも知れないが、人としての慎みが無さ過ぎるように思われる。

 エリザベス女王の国葬こそ「本物の国葬」だと話題になったことで、安倍元首相の国葬儀の位置づけがより明確になったように思う。「本物」ではないのだ。既に通夜も葬儀も済ませられているので、「お別れの会」とでも呼ぶのが相応しい。京都大学の曽我部真裕教授のように、必ずしも法律は必要ないと言われる憲法学者もおられるが、内閣府設置法に言う「内閣の行う儀式」を、憲法7条に言う「国葬」と同様に「国葬儀」と称するのは、海外に対しては分かり易いが、国内では権威者(たる天皇陛下)ではなく権力者に対して「国葬」の語を使う、そのやや時代錯誤にも映る語感が疑念を呼ぶのだろう。当初の説明を繰り返すばかりで工夫がない岸田首相や、判断基準や法の根拠を問い質すばかりで「場」を弁えない野党や左派メディアに欠けていたのは、曖昧に使われる「国葬儀」がそもそもどういう性格のものなのかという「定義」の議論だったのではないだろうか。どう見ても、バラバラな想定、中には古色蒼然とした戦前の「国葬」を(戦前の国葬令は失効したにもかかわらず)連想するような思い込みにより、およそ生産的でない空中戦を繰り広げてきたように思えてならない。支出についても曽我部教授が言われるように、「(なぜ他の首相経験者と違うのかについて説明する必要はあるが)憲法上は予算として予備費を計上した上で内閣の判断で支出し、事後的に国会の承諾を受けるとなっているため、法的には問題ない」(*1)と思う。

 内閣の責任で、国の行事として、弔問外交などと勇ましいことは言い立てずに、ゆかりのある内外の賓客をお招きし、これまでのご厚誼を謝しつつ、しめやかに亡き元・首相の人柄と偉業を偲べばいい。時の内閣が、それを実施すると内外(とりわけ諸外国)に宣言して恥ずかしくないと思えば、そう判断して実施すればいい。十数億という予算を非難する声が挙がるが、単独の外交よりも一度に多くの外交成果が挙がることを思えば高くはない。しかし、あくまで結果としての外交であって、国葬儀を正当化するために外交目的を予め言い立てるようでは興醒めだ。先ずは亡くなった方が主にあるべきで、そういう慎みがあってこその弔問外交であろう。G7からはカナダの首相しか参列しないと揶揄する向きもあるが、安倍元首相の外交成果は、海外関係にあっては、インド太平洋構想を政治的に発信し、伝統的に非同盟のインドを振り向かせたことや、環太平洋におけるCPTPPのような自由な経済秩序を守ったことにあって、その意味では、カナダのトルドー首相、オーストラリアのアルバニージー首相(と、前、元首相)、インドのモディ首相、ベトナムのフック国家主席、シンガポールのリー首相らが参列されるだけでも十分ではないかと思われる。

 こうした私なりのわだかまりをくどくどと吐露するよりも、10日ほど前に日本外国特派員協会(FCCJ)で行なわれた、国葬儀に反対する活動家の方々への海外の記者の素朴な質問の方が余程、今の騒動のいかがわしさをより雄弁に物語るだろう。以下、弁護士ドットコムニュース編集部・記事(*2)から引用する。

 

(引用はじめ)インドネシアの記者からは自国では国家元首が亡くなった時には、反対派も含めて喪に服して尊敬の念を示すと説明。それでもデモをするのはなぜかと問うた。

 高田氏(注:国会前のデモなどを主催する「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の共同代表)は「憲法の精神では、多くの市民が自由に自分の意思を表明することを妨げることは間違い。立憲主義の象徴である国会前で意思表示することが大事です。人の死を悼むことと、安倍さんの政治的な業績を評価すること、自分たちの意思を表明することはそれぞれ別のことだと思っています」と応じた。(引用おわり)

 

 高田氏の理屈はもとより間違っていないが、残念ながら質問に対する答えになっていないように思う。人間社会は理屈だけでは通用しない、品位や慎みといった感情的対応がある。わざわざ自分宛の国葬儀招待状の写真をアップして欠席を表明するような子供じみた対応をして見せた蓮舫氏や辻本清美氏に対して、三浦瑠麗氏が「はしたなく見えるのでやめた方がいいと思いますよ。余計なお世話ですが。」と呼びかけたのも、この文脈での話だろう。

 

(引用はじめ)またデモについては他にも「高齢者が多く若者が少ないのはなぜか」「それでも安倍政権が選挙で選ばれてきたのではないか」などの指摘があった。

 高田氏はこう応じた。「私たち世代は過去の経験から政治が変わると信じているが、今の若い人たちは変わらないことを見てきた。変わることを恐れている。もっと若者と接触して話し合うべき。努力が足りなかった、これは私たちの責任です」(引用おわり)

 

 まっとうな質問に、高田氏は苦し紛れにお答えになったのだろうが、残念ながらこれも答えになっておらず支離滅裂である。

 もとより自由主義国家なので反対意見の表明は自由で、権威主義国家でもない限り大多数が賛成することなどあり得ないし、故・吉田茂元首相の国葬儀でも反対運動が激しかったことからすれば、政治指導者の評価が定まるには時間がかかるのだろう。だからと言って、選挙期間中に凶弾に斃れるという衝撃から間延びする中で、(旧・統一教会問題にも言いたいことはいろいろあるが、長くなるので、機を改めることにして)これらのキャンペーンをせっせと実施することによって、移ろいやすい世論をなんとなく反対寄りになびかせて、世論の過半数が反対する以上、国葬儀は実施すべきではないと主張する構図は、なんとも片腹痛い。清少納言であれば「あな、浅まし」などと嘆かれることだろう。選挙がない「黄金の三年間」を手にしたはずの岸田首相は、政権支持率が急落して、さぞ安倍元首相のご苦労が身に沁みることだろう。いつもの見慣れた光景ではあるのだが。

(*1) https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/88051.html

(*2) https://www.bengo4.com/c_18/n_14995/

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