鉢の土入れ替え作業をしていて思った。古い土に残っている根毛をいくら取り除いても、100%完全に除去することは出来ない。50%でも70%でも、そんなに違いが生まれることはない。それでもなお、少しでも取り除いておこうとするのは私の好みでしかない。1つの鉢の土の入れ替えに1時間以上もかけ、エコノミー症候群になるくらいに身体を縮めて作業をするのも、単なる私のこだわりに過ぎない。
私は努力の人ではなかったが、自分の基準にはこだわる癖があった。小学校5年までは、授業で手を挙げることができなかった。通知表にはいつも、「もう少し積極性が欲しい」と書かれていた。5年のあのストライキも、なんとなくみんなに付いて行った。ただ、その過程で脱落していく仲間が何人か出た。それぞれに自分の意思で学校へ戻ったのだが、私にはそれが不思議だった。この事件を契機に、自分の意思を持つ積極的な人間になろうと決めた。
中学生になり、試験の度に成績順が廊下に張り出された。バカバカしい。人を点数で評価するのは間違っている。試験のための勉強はしない。試験で良い成績を取って、それだけで評価されるような社会には期待がない。勝手にそんな風に決めて、勉強は授業でやればいいと家では宿題以外はしなかった。幸いなことに家には父にもらった百科事典があったから、それを眺めて暮らした。中間とか期末とか、範囲の決まっている試験はそこそこだったが、範囲のない実力試験は成績がよかった。
それでまた勝手な考えに陥った。試験は実力でやるもの、試験のための勉強は一時的なもの、などと屁理屈を考え、試験勉強をサボった。次第に結果が目に見えて現れてきたのに、勉強は自分が自分のためにするもの、自分が納得できなければやらなくていいと自分の道にこだわった。ドストエフスキーやトルストイ、ジイドやルリケを読み、歴史や地理に没頭し、キリスト教に共鳴する一方で、ブリジッド・バルドーやジャンヌ・モローに魅せられていた。思えば、偏執症なのかも知れない。