小学校の帰り道に外科医院があり、その庭にたくさんのバラが咲いていた。中学生になった時、裏の畑には柿木と茶木しか植えられていなくて、畑としては使われていなかったので、父親に頼んでこの土地を貸してもらい、花園にしようとした。何よりもバラを植えたかったのに、私の小遣いではバラ園にすることは出来なかった。
その負い目なのか、ルーフバルコニーで15鉢のバラを育てている。私の部屋の窓から咲き誇るバラが見える。窓際にアジサイの鉢を置いているが、やっと花が膨らんできた。緑に囲まれて満足なのは、子どもの頃からの欲求だったのかも知れない。ふと、私は何になりたかったのだろうと思った。庭を造る人、家を設計する人、映画監督、新聞記者、牧師…。
結局、職業は強く望んでなる人もいるけれど、私の場合は成り行きだった。大学で美術を学んだのも、東京には行けない、私学は無理、それなら受かるところで好きな科目という安直な選択だった。岐路はいくつもあったが、環境とか時期とか能力とかいろんな要素があったとしても、最後は自分で決めているように思う。
高校の美術の教師になり、現代アートの代表格だった大学の先輩に、「インドへ一緒に行かないか」と誘われたのに行かなかったことが一番悔やまれる。「教師になるか、アーチストになるか、はっきりしないとダメだ」とアドバイスを受けていたのに、踏切ることが出来なかった。自分のアーチストとしての能力に自信がなかった。
内ゲバに巻き込まれて滅多打ちされ、両手は粉々になった。教師を辞めてからの10年間、長女には辛い思いをさせた。私は職業を転々とし、夫婦仲は悪く、生活はカミさんに頼るものだった。「パパは言ってることとやってることが違う」と長女には映っていたことだろう。自分で地域新聞を始め、やっと自分らしく生きる世界を得た。それがルーフバルコニーでのバラになった。
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