友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

老人の狂気

2012年11月26日 20時22分41秒 | Weblog

 「雨が降っているので、学校まで送って行って」と高校3年の孫娘からの要請に応えて出かけた。久し振りに車を運転することもあるが、今朝はなんとなく頭がスッキリしていなかった。曲がる道を間違えて、予定よりも10分近く遅れてしまった。たった1ヶ所、右折する所を間違えただけだったのに、慌てて軌道修正しようとしてさらに迷路に迷い込んだ。ナビを見ていたのに、イヤ見ていたからこそ、狐に騙されたような具合だった。よせばよいのに、送って行った帰り、どこをどう間違えたのか確かめるつもりだったのにさらに分からなくなってしまった。これはひょっとすると老化なのかも知れないという不安がかすめた。

 午前中は会議があった。この会議は何のためのものなのだろう、そればかりが頭から離れなかった。会議の進め方もよく分からない。本来の目的を果たしているのだろうか、それを口にすべきなのかと迷う。実際、私は今、何の役にも立っていない。役に立っていない人が参加し、そのために何がしかのお金を払うのは無駄な気がしてしまう。このままではどうにも自分は居心地が悪い、やはり辞退する方がいい、そんな気がした。私自身に改革を推し進める情熱がなくなってきているようだ。今朝の車での迷路への入り込みも、頭が働かなくなっている証拠ではないかと思えてくる。

 「このままでは日本はダメになる」「何でオレがこんなことをやらなくてはならないのか、若いやつ、しっかりしろうよ」と太陽の党を立ち上げた石原慎太郎さんは、「憲法改正・脱原発・消費税なんて細かいことにこだわっている場合じゃーない。もっと大きな国家の行く末をどうするかだ」と橋下さんの維新の会との合流を果たした。「政策の一致が大事」と言っていた橋下さんは、脱原発も企業献金も捨て、「組織を動かすことが政治」と言い出している。石原さんの小説「太陽の季節」は、既成概念への反抗ではなかったのか。太陽族の元祖が軍備力の強化で世界と対等になれると言い出すのは、老人の狂気ではないかと思う。

 尖閣諸島や竹島で政府の対応はナマヌルイと言う人は多い。私の友だちもそう言うし、知的な高齢の女性も強い口調で政府の弱腰をなじっていた。「自衛隊でも派遣するのですか」と私は冷やかすのだが、そう言う人は本気で「その方がいい」と答える。「戦争になるくらいの決意が無ければ領土問題は解決できない」と主張する。「それで、もし戦争になったらどうするの?」と聞けば、「その時は戦えばいい」と言う。友だちも女性も高齢で、自分が戦場に行くことはないけれど、実際に戦地に向かわなくてはならない若い人は嫌だろう。小さな島の奪い合いになぜ自分の命を捧げなくてはならないのかと思うだろう。

 殺されるのは嫌だし、殺すのも嫌だ。そんなことをしなくてすむ社会をつくることが政治の役割だろう。狂気の老人に付き合う必要はない。むしろ狂気であることを知らせてあげた方がいい。

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