友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

娘を泣かせてしまい‥

2012年11月19日 18時33分52秒 | Weblog

 茨城県の次女夫婦のところへ行って、最後に次女を泣かせてしまった。初めのちょっとしたズレが原因だった。3日目の午後、さていよいよ帰ることになった。鞄が2個、娘の車に置いてある。駅まではよくあっても10分もかからない距離なので、私は車から鞄を受け取り、歩いていくつもりだった。娘は「私も駅まで行く」と言う。行けば往復20分はかかるだろう。ダンナの傍にいればよいのにと思ったので、「それなら、車で送って」と言った。時間が短縮出来ると思ったからだ。娘の方は、遠いところへ来てくれた私たちにお礼のつもりで、一緒に駅まで歩いて行くと言ったのに、全くその思いが変わってしまうことで腑に落ちなかったろう。

 駐車場を出ようとすると、料金が200円と表示された。「こんなことなら、守衛室で判を押して来ればよかった」と娘が言う。「ああ、ごめんね」とその時に、私が言えばそれですむことであった。何しろ私が「車で送って」と言わなければよかったのだから。しかし、余りに何度も「200円も余分なお金がかかった」と繰り返すので、気分が悪かった。なぜ200円くらいのことで、そんなにまで言うのか、その気持ちが情けなかった。「そんなに200円払うことが嫌なら、ボクが払う」「そんなことを言ってるわけじゃーない。どうして『ごめんね』と言えないの」。

 「パパはもっと心の大きい人だったでしょう。いつからそんな狭い人になってしまったの」「いや、昔から何も変わらないよ。あなたこそ、不愉快な言い方をやめたらどう」「みんなパパのような人ばかりじゃないわよ。いろんな人がいることが分からないの」「もういい、あなたに何を言って分からない」「パパこそ、分かろうとしないのよ」。次女が言うように、人にはいろんな人がいる、だからそっくりその言葉を返したい。私と次女は似ているのだろう。相手に求めすぎているのだ。こうあって欲しいと思うから、そうでない面を見るとイライラしてしまう。

 私が「送って」と言ったのだから、私が一言「ごめんね」と言えばすむ。けれどもそれでは「お金がかかってしまった」と言われたことの気分の悪さが伝えられない。たとえ相手のせいで自分が嫌な目にあったとしても、そんなことは心の奥に閉じ込めておくことが大人の生き方だと教えておきたい。私も次女も、他人から見れば優しいと言われているように、自分以外の人のために骨を折ることが好きだ。けれどもそれは「情けは人のためならず」で、私はこんなにもあなたのことを愛しているのだから、あなたも私を愛して欲しいと、強く求めているのだ。

 私も次女も、自分の価値観や美意識を相手に押し付けすぎる。娘が言うように、人は様々で、自分と同じように考えたり感じたりしてくれるものではない。だから、相手を受け入れる度量が欲しい。私は歳を重ね、価値観や美意識が違ってもそれなりに付き合える。だって、自分と同じように考えたり感じたりする人に出会ったことがないのだから。それが家族となるとどうもダメだ。長女は、「パパはこんなものよ」と達観しているのか、私とケンカにならないが、次女は私への期待がまだ残っているようだ。次女が長女のようになるまで、もうしばらく諍いしてみよう。

コメント
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