友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

故郷は遠くなるばかり

2023年04月13日 17時27分50秒 | Weblog

 刈谷市立亀城小学校の同級生が、「千載一隅のプレゼントを贈る」とメールしてくれたので、何が送られてくるのかと楽しみにしていた。昭和28年(1953年)に発行された「刈谷市地籍図」とその裏面の「刈谷市商店街の図」を、プリンターでスキャンしたA4を何枚も貼り合わせたものだった。

 同級生は「このところ身辺整理を進めています、書棚整理で懐かしい地図を発見しました」と、手紙が添えてあった。「私たちが小学校2年生当時の町の地図です、商店の配置図は小学校の通学路に存在した各商店の名前が懐かしいです、個々のお店を思い出します、多種多様な多くの商店が存在していました。」

 彼の家は「万灯祭り」の会場となる秋葉神社の近くだったから、小学校へ通う道は刈谷で一番賑やかな商店街だったと思う。私は亀城小学校の学区の外から通っていたので、いろんな道を通って通学し、帰りはまた、気の向くままあちらこちらと彷徨い歩いて帰った。送られてきた地図を見ながら、店の名前を確認し懐かしく思った。

 刈谷市駅から西へ少し行ったところに「鈴木材木店」はあった。駅に近いところに「水産市場」があり、朝早くには勇ましい掛け声が響いていた。市場の入口に従業員の長屋があり、そこの女の子は「お医者さんごっこしよう」と言うおませな子だった。市場の午後は人影もなく、紙芝居のおじいさんがやって来ていた。

 遠くから見ている子がいると、「金を払っていない子は見ちゃダメ」と追い払った。私の家の前には八百屋があり、その隣には菓子屋があった。何時の頃からか、クリスマスにはケーキが売り出され、父が買ってきてくれた。家から更に西へ行くと、銭湯があった。我が家には風呂はあったが、中学生になった時、友だちに誘われて銭湯に行った。

 風呂上がりに牛乳を飲み、銭湯を経営していた家の開かれた窓からテレビをみんなで見た。まだ貧しい時代だったのに、何か活気があり、みんな忙しそうだった。過日、孫娘に私の母校である亀城小学校を見せてあげようと行ってみて、こんなに狭い運動場だったのかと思った。故郷は遠くなるばかりだ。

コメント
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