友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

豊かなのに貧しい

2012年02月22日 17時56分39秒 | Weblog

 ラオスへ20日間旅してきた友人が帰国した。ゆったりと流れるメコン川の岸辺のレストランで、それはエアコンの効いた素敵な店ではなく、虫が飛び交うような田舎の食堂で、ビールを飲みながら雄大な川の流れを見ていた時の話である。ふと、目をやると、対岸にも集落があり行き交う人々の姿があった。しかし、対岸は別の国である。わずかな距離しかないのに、川を挟んで別の国が存在することを始めて意識したと言う。

 

 都会は日本と変わらないような生活に見える。けれども都会を離れたなら、そこはもう日本の田舎とは全く違う、大昔に近い生活だそうだ。「やっぱり日本はいいね」と感慨深く言う。すると別の友人が「ラオスの方がいいじゃーないの。日本は四季があるから、寒い時にはコートも要るし、暖房だって必要だが、ラオスじゃー、そういう心配は必要ないでしょう」と言う。「ああ、家は高床式で、トイレもないけれど、だから困るというわけではみたい」と答える。

 

 埼玉のアパートで、60代の男女と30代の男性の死体が発見された。死亡は約2ヶ月前で、死因は餓死だという。3人は親子ではないかと言われているが、未だに身元の確認も出来ていない。おそらくラオスでは、餓死する人はいないのではないか。手を伸ばせば、森には果物があり、川には魚がいる。けれども友人は「ラオスも都市に人が集まって来ているし、生活様式も変化している」と教えてくれた。

 

 農業や漁業や牧畜で暮らしていた頃は、自然に大きな変化がなければ何とか食べていくことが出来ただろう。食糧を蓄える技術を開発してきたけれど、それでも限界はあった。食糧を奪うために戦争を繰り返した。川や山を国境にして、他国からの侵入を防いできた。産業革命以後、人々は多くの富を手に入れることが出来た。自然の変化に屈しない社会を築いてきた。私が子どもの頃に言われていたのは、「生産力が高まれば、人は少ない労働で暮らしていけるようになる。人間は初めて時間を自分のものにする」というユートピアだった。

 

 こんなにも豊かな社会になったのに、都会の真ん中で餓死する人がいる。自殺する人は年間3万人もいて、少しも減っていかない。秋葉原の無差別殺人のような、理由なき殺戮が起きている。物価が下がって生活は楽なのに、これでは経済活動が下火になるからと、インフレ政策に躍起になっている。物は充分足りているのだから、購買力は上がらない気がするが、どうしてそんなに右肩上がりでなくてはいけないのだろう。

 

 南太平洋の小さな島の人々は、文明が島にやってきて、全く生活が変わった。生活が変われば、価値観も変わり、生き方も変わる。みんなで漁に出るよりも、手っ取り早くお金が手に入ることに重きが置かれ、若者は島を去って行った。ラオスでもベトナムでもカンボジアでも、都会にはビルが建ち、娯楽が溢れ、贅沢を競うようになった。人間はどこでもやはり同じことを繰り返す。

 

 いつしかラオスの都会でも、職を失い餓死する人が出るのだろう。手を伸ばせば食べることには困らなかった地域も、目の前の果樹園の果物は輸出用で、食べれば犯罪者になってしまう。豊かなのに貧しい。なぜなのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。

コメント (1)
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