友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛し合い方は学習するもの

2012年02月25日 19時20分26秒 | Weblog

 久し振りに2歳7ヶ月になる孫娘が、高校2年の孫娘と一緒にやってきた。高校2年の孫娘は学年最後の試験期間中で、母親は夜勤明けなのでぐっすり寝させてあげたいし、自分も試験勉強をしたいから面倒をみて欲しいと言う。高校生の孫娘は大人っぽくなってきた。下の孫娘はますます大きくなり、顔付きもパパにそっくりで、さすがに音楽好きの血を受けて、歌うことが好きなようだ。私がひな祭りの歌を歌ってやると、自分で歌うからと自己主張もしっかりしている。

 

 好きな色や好きな遊びなど、小さな子にしてはびっくりするほどはっきりしている。ジジ・ババといる時は、高校2年の姉と同じようなつもりでいるけれど、いったん母親に会ってしまうと突端に甘えん坊に早変わりしてしまう。2歳7ヶ月になるのに、まだオッパイを欲しがる。我が家の子どもたちも小さな時、カミさんの実家で面倒を見てもらっていた。「1週間のうちの6日間も預かっているのに土曜の午後に母親が迎えに来ると、すぐにママのところに飛んで行ってしまう」とカミさんの母が嘆いていた。

 

 子どもは母親が一番好きなのだ。誰が安心して甘えられるかをよく知っている。母性愛は本能ではなく、後天的に学ぶものだと言う学者がいるけれど、そんなことを証明するような事件が続いているのは悲しい。わが子であっても、育児放棄をしてしまうケースのほとんどは、子どもの時に可愛がられた経験がないという説もある。子どもを甘やかして育ててはいい子にならないと言うけれど、4歳になるまでは甘やかしてもいいのではないかと思う。大きくなれば、オッパイを欲しがったり指しゃぶりをすることが自然に恥ずかしくなって止めていく。

 

 男が女性に甘えるのも、女が男性を可愛く思うのも、幼児体験の復活なのかも知れない。高校2年の孫娘も夜勤で出かける母親の姿が見えなくなるまで「ママ、ママ」と泣き叫んでいた。でも、姿が見えなくなれば諦めて、ジジ・ババと遊ぶ。人が甘えるのはまだ動物の域にあるように見えるけれど、最も深い信頼関係にある証拠だと思う。人類は協同することで繁栄してきたけれど、甘えられる相手がいなければ協同も生まれなかったのではないかと思う。か細くて折れやすい心を人は持っているのだから。

 

 試験勉強をしていた高校2年の孫娘が、社会や国語の問題を聞いてくる。彼女は決して数学や理科の問題を尋ねることは無い。もうすっかり、私が何なら答えられるかを知り尽くしている。芥川賞の『共喰い』の主人公は、17歳で1つ学年の上の女生徒とセックスしている。私たちの時代では考えられなかったことだと書こうとして、いや、私が知らないだけでそういう奴はいたかも知れないと思った。高校時代の自分を振り返ってみても、そうした欲望が無いわけではなかった。ただ、恐かった。

 

 高校生の孫娘も、まだ幼児の孫娘も、いつかは好きな人が出来て、愛し合うようになるだろう。そう思うと不思議な気がする。そんな風に、誰が教えたわけではないのに人を好きになるのに、愛し合い方は本能ではなく、学習するものだとは知らなかった。

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