友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

名古屋ボストン美術館のトイレ

2012年02月15日 18時27分51秒 | Weblog

 名古屋ボストン美術館で開催されている「静物画の世界」展に行ってきた。一緒に行くつもりの人の都合がつかず、締め切りが19日までだったのでカミさんと出かけた。意外に人が多いのには驚いた。ポスターのコピーがうまい。「静物画の世界」の枕には「恋する静物」とあり、「りんごの想い。レモンのこころ」などとあるから、どんな展覧会かと気になるところだ。セザンヌ、ルノワール、マネとあるので、こうした画家の静物画展かと思ってしまうのも無理は無い。

 

 もともとボストン美術館はそんなに大きな美術館ではないので、いつものことだが展示作品は多くない。今回の企画もヨーロッパ中世の作品からマチスあたりまでの静物画を展示している。セザンヌもルノアールもマネも作品は1点しかない。17世紀オランダの静物画から始まって近代へと続くように展示してあるが、このオランダの静物画は写真以上に精密なのに対して、最後の方にあるマチスの静物画はまるで子どもの未完成作品である。そう思ってしまうのは、私が絵の技術の方に関心がいってしまうためだ。

 

 絵画は伝播と記録という役割を担ってきた。中世では文字が読めない人々に、キリスト教の偉大さを教えるために大聖堂が作られ、その天井や壁面に聖書の物語が描かれた。専制君主や大商人が生まれると肖像画が盛んに描かれた。神話や聖書物語に代わって、歴史的な場面が描かれるようになる。オランダでどうしてあのような精密画が誕生したのか私は知らないが、記録という役割が絵画に求められていたのだから、写実的でなくてはならなかったのだろう。

 

 中世においても、小さな穴を通して外の世界を暗い部屋に映し出して絵を描いた職人もいたようだが、産業革命で写真機が誕生すると絵画の世界は一変した。産業革命で生まれたブルジョア階級は、王や大商人や法王のように自らの肖像を残すに新技術の写真を求めるようになった。記録としての絵画の役割は終焉を迎えたのだ。そして、産業革命は科学を重視し、学問を広めたので、絵画もまた当然その波に飲まれていった。写真のような古典派ではなく、光を捉える印象派が誕生し、絵画は芸術のひとつとなった。

 

 目の前の静物を見たままに、いやそれ以上に精密に描写する絵画から、心で見て表現する絵画へと変わっていった。私にはそれだけのことでしかない気がして、「静物画の世界」展は物足りなかった。絵画だけでなく、モチーフでしかない花が静物画として、産業革命前後の陶磁器や銀食器が展示してあることもよく分からなかった。名古屋ボストン美術館の運営が取り沙汰されていたけれど、企画力が弱いのかも知れないと勝手に思った。

 

 話は大きく逸れるが、アメリカで永く生活した先輩が、「白人は概して保守的だ。自分たちの生活スタイルを変えようとしない」と話した時、アメリカではホテルのトイレにも温めた便座は無いと話題になった。しかし、ボストン美術館のトイレは日本式のウォッシュレットだろう思って、確かめに入ってみた。結果はアメリカ式の冷たい便座だった。ボストン美術館は意外に保守的なのだと思ったが、いやお金が無いだけかも知れないと思い直した。

コメント
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