友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は皆、寂しがり屋なのだ

2012年02月10日 19時50分10秒 | Weblog

 今朝はお世話になった女性からの呼び出しを受けて、彼女の家を訪ねた。私が最初の首長選挙に立候補した時、たまたま挨拶に行ったことが縁で、長い付き合いが続いている。同じ三河の出身ということもあったかも知れないが、何よりも彼女は世話好きでしかも選挙好きだった。若い頃は親族の選挙を手伝ったとか、民社党の党首のウグイスをしたことがあるとか、かなり歴戦の主だった。今年の1月の誕生日で88歳になったけれど、とてもそんな歳には見えないくらい元気だ。お孫さんとふたりで暮らしているけれど、お勝手は彼女がつとめているそうだ。

 

 お孫さんとふたりだけという理由だけではなく、持って生まれた天性だと思うけれど、おしゃべりがとてもうまい。機知に富んでいるし、ことわざや熟語や昔の慣わし等に精通している。難点といえば、話し出すと止まらないことだろう。電話を頂くなら少なくとも、30分は受話器を置くことができない。年寄りはいつも同じ話をしてしまうものだが、彼女は1時間でも2時間でも、次々と話題が出てくる。話し相手にされた時は、さてこの話はいつ終わるのだろうと困惑することもある。ズバッという物言いなので、悩みや相談事を抱えた人がよく家を訪ねてくる。友だちも多く、野菜や手作りの食べ物や実家からの土産やらがいろいろと届く。

 

 人の悩み事相談にのるような人なのに、「どうしたらいい?」という相談だった。彼女よりは若いけれど、ひとり暮らしの女性から手紙が来て、ノイローゼになって昨夜は一睡も眠れなかったと言う。その手紙を見せてもらったけれど、神官である彼女に親しみと敬意を抱いていることがよく分かった。そして彼女のためになろうとしたけれど、彼女にその気がなくてとても残念だとある。普通の人はそこで手紙を終えるけれど、この女性は「死にたい」とか不吉で不気味な言葉が続いている。「気味が悪い。私に何か罪があるのかしら。彼女の好意はありがたかったけれど、車椅子でしか移動できないから断ったのが、そんなにいけなかったの?」と悩む。

 

 神官であり悩み事相談所長のような彼女でも、困ることがあるのかと納得した。手紙の女性は私もよく知る人だけれど、長くひとり暮らしをしていて、ご近所に友だちもいないようだ。子どもさんはいるけれど、遠くに住んでいるからそんなに頻繁な交流がないのかも知れない。女性は今、仕事もしていないから、話し合える人もいなくて寂しいのだろう。女の人は男のように融通が利かないという人は少ないが、この女性は男の人のようにプライドが高く、従って社交的になれないのだ。神官であり社交的で、人の出入りが多い彼女に、女性は羨ましく思い、すがりつきたくなったのだろう。

 

 女性の手紙は病的だけれど、だからといって血縁でもない私たちがどうこうすることは出来ない。余り深入りせずに、かといって邪険にもせず、少し距離を置いて、出来れば少しずつ遠ざかる方がいいのではないかと私は思う。何かにすがりたい人は、きっとまた彼女でなくても、たとえば宗教とか、心を慰め満たしてくれそうなものにしがみついていくだろう。人はなかなか強くはなれない。自分を受け入れてくれる人が欲しいのだ。恋愛と一緒で、この人ならと思えばどんどんエスカレートしていく。人は皆、寂しがり屋なのだとつくづく思った。

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