友々素敵

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新美南吉の安城時代

2012年02月06日 19時45分45秒 | Weblog

 昨日、長女のダンナのお母さんから「よかったら読んでみてください」と冊子を4部預かった。安城で発行されている新美南吉に関するものだった。童話作家の新美南吉は半田市の生まれだけれど、県立安城高等女学校で4年間教壇に立っている。東京外国語学校を卒業し就職するが、結核のため半田に帰り、24歳から29歳で亡くなるまでの5年間をこの学校に教師として勤めた。学校から少し離れたところに下宿して通っていたようで、安城市には『新美南吉を歩く』というガイドマップが作られ、ガイドボランティアも結成されている。これらは「新美南吉に親しむ会」が土台となって行われているようだ。

 

 ダンナのお母さんはこの「新美南吉に親しむ会」のメンバーで、会が発行している『花のき』に原稿を寄せていた。歴史のことが好きで、安城ゆかりの人を訪ねて東北地方を旅行したことなど聞いたことがあったし、南吉の話も聞いた気がしたが、ぼんやりとしか覚えていない。でも、『花のき』を読んで、安城の新美南吉には無くてはならない人のひとりだと分かった。愚かにも、私は南吉が勤めていたのは私学の女学校だと思っていた。明治42年生まれの私の母は、戦前にその私学の女学校に勤めていたことがあると聞いていたので、ひょっとしたら新美南吉と机を並べていたのではないかと夢想していた。けれどもよく考えてみれば、私の姉は昭和6年に生まれているのだから、南吉が赴任してきた昭和13年は7歳と6歳の年子を抱えていて、そんなロマンチックな夢を追う余裕はなかっただろう。

 

 学校に赴任するまでの南吉は「タバコを買う銭もない」ほどだったから、安城の人たちが「南吉の生涯で経済的にも安定し、心身ともに最も充実した時期でした」と書いているのも道理である。「代表作の多くはこの安城時代に書かれました。このため、安城は南吉の第2のふるさとと呼ばれています」と『新美南吉を歩く』にある。南吉は安城高等女学校でいい仲間の先生に出会っているようだ。修学旅行の引率した時、一緒に行った3人の先生と旅の絵を手帳に描いているし(『三人道中』)、翌年、生徒を引率した富士登山した折にも『六根晴天』なる画帳や、また同僚と伊豆大島を旅して『三人旅日記』を絵と文と写真を交えて作っている。

 

 これらは平成17年に安城市歴史博物館で開催された企画展「安城と新美南吉」で展示された。この企画展の冊子の最後に、「新美先生安城高女勤務年譜」が載っている。筆者は長女のダンナの母親である。安城の新美南吉には無くてはならない人なのは、お母さんがこの原稿を書いたというだけではない。お母さんは安城高校(安城高等女学校が学制編成で変わった)で司書として働いていた折、学校の移転などで倉庫に埋もれていた南吉に関する資料を探し出し、整理していたのだ。安城高女時代の貴重な資料を整えた彼女の功績はきわめて大きい。息子や娘たちは「口うるさいだけ」と言うけれど、それは母親なら当たり前のことで、ひとりの人としては凄い仕事をしてきた。コツコツと資料を整えただけでなく、文章もうまいと感心した。頭が下がる。

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