goo blog サービス終了のお知らせ 

友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛の形はそれぞれ

2008年08月28日 23時00分41秒 | Weblog
 昨日のブログを読み返してみて驚いた。読み返しもせず、ブログの形もきちんとしないまま、掲載してしまったようだ。そんなに酔っ払っていたとは思わなかったが、どんな風に最後を終わったのか覚えていない。タイトルも「自己否定から始まる」となぜつけたのか、今考えてみてもよくわからない。文章の最後に「愛は不変だ」とあるのも、唐突な結論で論旨がつながらないように思った。そこで、このブログを書く前に手直しをさせてもらった。

 昨日、こんなに混乱したのはそれなりに理由がある。「質量不変の法則」「エネルギー保存の法則」の中身を正しく理解できていないからの発想なのかもしれないが、社会学の「需要と供給」の関係と同じように、結局は形が変わってもバランスをとって収まるように収まる。人間がどんなにこの地球を変えてしまっても、最後には収まるところに収まるのであろう。そんなことを考えていたが、人の一生で見たならどうなるのだろうかと思ったのだ。そこから混乱が始まった。

 「何でもない日常に、小さな喜びや感動を見つけることができたら、きっと毎日が特別な一日になる」という文章に出会った。12年間、友だち以上恋人未満の関係を続けてきた私の親友は、「特別な一日」にこだわっていた。デートすることで二人の時間と空間を持ちたかったのではないかと私は推測しているが、思い出作りのためにデートをしていたようにみえた。「揃いのマグカップを買おうよ」と彼女が言うのに、彼は踏み出せなかった。友だち以上恋人未満の関係を維持できなくなるのではないかと恐れたからだ。

 「相手のことを誰よりも愛していて、相手も自分に好意を持ってくれていると分かったとしても、それでも、卑怯かも知れないが、簡単にプラトニックの関係を超えることを許さない意固地な私が、心のど真ん中に堂々と居座っており、二人の関係をこれ以上前に進ませないのである。人生には仕出かして後悔することもあるし、何もしなかったことを後悔する場合もある。一度の人生である、何も行動しないで後悔はしたくないと多くの人は語る。だが、相手が好きで好きでたまらなくても、現状維持を守り抜いて行動しない方が、後悔しないだろうという考え方も、私の中には“有り”なのだ」。

 エライ奴だなと私は思った。私は下世話な人間なので、プラトニックな世界に身を置くことは無理で、とても彼のような行動はできないであろう。はじめは彼の言葉が信じられなかった。美しい女性を見て、抱きたいという自分の欲望を押さえ込むなんて出来ないと思った。抱きたいという気持ちがありながら、それを押さえ込むのは自分の心を偽っているのではないか、欺瞞ではないかと思っていたのだ。しかし、それをやり遂げる彼の意志の強さに感服した。相手の女性はそれでよかったのかと疑問に思うことはあるけれど、人の愛の形と大きさはそれぞれだと思い知った。

 プラトニックで過ごすことも、反プラトニックであることも、妻や子どもや世間の決まりを裏切っていることには変わりないと私は思うけれど、実はやはり彼のいうように、「傷つけ合うことのない、いい加減さ」こそが、最大の愛なのかもしれないと思えるようになった。それにしても、愛とはいったい何なのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする