goo blog サービス終了のお知らせ 

友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

墓など無用だ

2008年08月15日 22時29分24秒 | Weblog
 姉から電話があって、「墓のことはどう考えている?」と言う。姉に子どもは一人しかなく、しかも女の子で嫁いでいる。その嫁ぎ先の義父が「わしの仏壇に(姉の位牌を)置いてあげてもいいよと言ってくれるけど、そんな肩身の狭い思いはしたくないから、どこかに墓を買おうと思うけど、あんたはどう思う?」と言うのだ。「姉さんの好きなようにしたらいいのじゃあないの」と私は答える。

 姉は「死んで行き先のない、野垂れ死にのような死に方はしたくない、きちんと死んでからの行き先がなければイヤ」と言う。それならそれで、「行き先があるようにすればいいじゃないか」と、私は答える。

 姉が誰でも受け入れるという無宗派の墓を買ったとしても、一体誰がその墓を管理し続けてくれると思っているのだろう。姪っ子には男の子が3人いるが、長男は彼の家の墓を守るかもしれない。いや、3人の男の子の誰かが先祖代々の墓を守るかもしれない。でもその次は誰が保障できるのだろう。

 私はよく知らないが、日本の大衆の墓はそんなに古いものではないと思っている。私の家の墓も祖父が戦争で亡くなった父の弟つまり叔父のために立てたものだ。その隣の先祖代々の銘のあるものだって、おそらくその時に立てたものだろう。ご近所の墓を見てもそんなに古いものはない。一番奥にある藩主の先祖の墓もそんなに古いものではないが、仮に江戸時代から続いてあったとしても、それは身分の高い人たちの墓だったからだろう。

 姉が言うように、死んで行き場がないのはみすぼらしいと思うのであれば、それなりの墓を立てておくことを否定する気はない。「あんたはどうするの?」と姉が聞くから、私が「子どもたちにお願いしているのは、火葬場で骨は拾ってこないということ。拾えばその骨をどうするかで悩むけれど、拾ってこなければ、墓の心配も仏壇の心配もない。姉さんだって、信仰もないのによくお墓の心配をするね」と皮肉を言うと、「相談した相手が悪かったわ。それでもあんたもいつかそういう時が来るよ」と言う。

 姉の言うようにみんなが墓を立てたなら、この地球上は墓だらけになってしまうだろう。私は数学に弱いから計算できないが、人類がこの世に生まれ、今では60億人に膨れ上がっているが、その最初の人類は何人だったのだろうか。死んだ人たちがみんな墓を立てたなら、これまでに何基の墓が必要だったのだろう。今、存在する墓がそんなに多くないのは、墓参りをするのがその子どもと孫までで、孫の時代のその次は確実に無いからだろう。

 そんな不確かなものに固執することは馬鹿げている。そもそも仏教では墓をそのように大事なものと考えてきただろうか。私の知るキリスト教でも墓を立てなさいと神は言っているのだろうか。先祖をないがしろにしてはならないことは自明の理だ。なぜなら今日の自分があるのは、先祖があるからだ。私たち人間はそうやって生きてきた。いや人間だけでなく、生き物は全て先祖から受け継いだものだ。今を生き、そして未来へとつなげていく、それは命であり生き方であり文化である。それが人間の本質だ。

 墓なんか無くても、自分が確かに存在したことの方がはるかに大きな意味があると私は思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする