78歳の姉が、大学院に通っている孫を心配している。クイズ番組を一緒に見ていた時、大学の教授が一般常識の問題に正解できなかったので、姉が「大学の先生でもこんなことも知らんのだね」と言ったところ、孫の大学院生は「専門のことがわかっていればいいんだ」と言ったそうだ。姉は私に「そんなんでええんかね?」と聞く。大学の先生に友だちは何人かいるけれど、一般常識にも優れなおかつ専門分野での造詣は当然深い。
姉の「大学の先生でも」という言い方に、孫は反発してそんなことを言ったのだろう。誰でも自分の身内というか仲間が非難されて気分のいいものではない。姉が大学の先生と言ったのも、孫のことを意識していただろうし、孫もそう感じたからこそ反発したのだと思う。言葉の攻撃に対する言葉の反撃である。
それでも姉は私に「23歳にもなって、彼女もおらんのだよ」と食い下がる。「今はそういう子が多いよ。女の子と付き合うくらいなら、アニメ見ていた方がいいなんて言う子だっているのだから。女の子と付き合えば、色々気を遣うし、時には悲しくなったり絶望的になったりするでしょう。そういうことが恋愛だと思うけれど、そんなことはめんどくさいと思ってしまう子がたくさんいるよ」と話す。「それで、どうなるんかね」と姉。「どうなるのかはわからないけれど、そういう人がいてもいいんじゃないの」と私。
「跡継ぎがいなくなると向こうのお祖父さんも心配している」と姉は言う。「なるようになっていくんじゃないの」と私は答える。実際、姪っ子の嫁ぎ先のことを心配したところで、どうにもならない。子どもたちは子どもたちで、必ずやっていくだろう。私の父の妹である叔母さんたちが、我が家の墓の心配をしてくださったけれど、私が生きているうちは毎年必ず墓参りをするけれど、私が亡くなった後のことはわからない。誰も知らない人の墓はもう要らない。
血のつながりは、それでどうこうということはないけれど、ここに集まっているのが親族だと思うものがあった方がいいと私は思うので、私はそのことをできる限り大切に思い、年に2回の食事会を続けている。それはまた、それぞれが家庭を持ち、血のつながりが出来ていく時のためだが、結婚しなくてはならない、子どもがいなくてはならないとか、いうことではなく、自分のつながりを意識する時のためだと思っている。
これからまた、夏祭りのために出かける。その前に、長女が人から頼まれ預かっている子猫にミルクをやらなくてはならない。孫娘は最後の水泳大会に出場しているので、結局は子猫の世話係が私のところに回ってきた。猫は好きではないから、うまくミルクが飲ませられるか心配だな。
姉の「大学の先生でも」という言い方に、孫は反発してそんなことを言ったのだろう。誰でも自分の身内というか仲間が非難されて気分のいいものではない。姉が大学の先生と言ったのも、孫のことを意識していただろうし、孫もそう感じたからこそ反発したのだと思う。言葉の攻撃に対する言葉の反撃である。
それでも姉は私に「23歳にもなって、彼女もおらんのだよ」と食い下がる。「今はそういう子が多いよ。女の子と付き合うくらいなら、アニメ見ていた方がいいなんて言う子だっているのだから。女の子と付き合えば、色々気を遣うし、時には悲しくなったり絶望的になったりするでしょう。そういうことが恋愛だと思うけれど、そんなことはめんどくさいと思ってしまう子がたくさんいるよ」と話す。「それで、どうなるんかね」と姉。「どうなるのかはわからないけれど、そういう人がいてもいいんじゃないの」と私。
「跡継ぎがいなくなると向こうのお祖父さんも心配している」と姉は言う。「なるようになっていくんじゃないの」と私は答える。実際、姪っ子の嫁ぎ先のことを心配したところで、どうにもならない。子どもたちは子どもたちで、必ずやっていくだろう。私の父の妹である叔母さんたちが、我が家の墓の心配をしてくださったけれど、私が生きているうちは毎年必ず墓参りをするけれど、私が亡くなった後のことはわからない。誰も知らない人の墓はもう要らない。
血のつながりは、それでどうこうということはないけれど、ここに集まっているのが親族だと思うものがあった方がいいと私は思うので、私はそのことをできる限り大切に思い、年に2回の食事会を続けている。それはまた、それぞれが家庭を持ち、血のつながりが出来ていく時のためだが、結婚しなくてはならない、子どもがいなくてはならないとか、いうことではなく、自分のつながりを意識する時のためだと思っている。
これからまた、夏祭りのために出かける。その前に、長女が人から頼まれ預かっている子猫にミルクをやらなくてはならない。孫娘は最後の水泳大会に出場しているので、結局は子猫の世話係が私のところに回ってきた。猫は好きではないから、うまくミルクが飲ませられるか心配だな。