北京オリンピックで女子ソフトボールが宿願の金を獲得した。選手の皆さんの執念が実ったと思う。それに対して星野ジャパンの野球は韓国に負け、3位決定戦で勝たなければメダルの届かないふがいなさだ。私はすべての試合を見ているわけではないので、全くの外野席からの意見に過ぎないが、星野監督の采配ミスだと思った。
星野監督はピッチャー出身だから、投手の状態はよく把握しているはずだ。しかし、素人の私にはその投手起用がよくわからない。ダルビッシュや田中という若いピッチャーの起用も、大事な場面でのベテランの起用も、私には不可解なことばかりだった。もし、選手の中に私のように監督に不信を持つ者がいれば、そのチームは本来の力を発揮するまでには至らないであろう。
星野監督は熱い人かもしれないが、選手の掌握ではどうだろうかと思う。星野監督がまだドラゴンズの監督の頃、巨人戦でグランドでの乱闘となり、当時巨人の王監督に星野監督が足蹴りをしている場面がテレビで放映されているのを見たことがある。私は星野監督にガッカリした。プロ野球選手としての王選手にもう少し敬意を持っていてもよいはずだと、私はその時思ったので、この時から星野監督が嫌いになった。
私は年功序列が大事なこととは思わないアウトサイダーであるけれど、年上の人やましてや功績のあった人を馬鹿にした態度は許せない古い人間でもある。リーダーとなる人はやはりそれなりの品格がなければならないし、ましてや仲間内から信頼される人物でなくてはならない。信頼される人物とは他人を正面から非難しない人だ。人の失敗を非難せず、許すことの出来る懐の大きな人だ。
それにしても、北京オリンピックの陸上競技で活躍する人々を見ると、たとえイギリスであってもフランスであってもポルトガルであっても、黒人であることには変わりない。黄色人種というのはやはり農業の人々のようで、陸上競技の力量には欠けるようだ。野山を走り回る黒人や白人の方が陸上競技の力が備わっている。だから私は、国別対抗戦のオリンピックはやめた方がいいと思う。個人競技に徹するなら、たとえ100分の1の差で勝敗が決まっても悔いはない気がする。それぞれにベストを尽くしたし、結果などはどうでもよいことになるのではないか。
人には運不運がある。巡り合わせもある。そんなことよりも全力を出し切ったことこそが尊ばれるべきだ。それがオリンピックの姿となるのではないだろうか。愛する人をトコトン愛したとしても、そんなことに優劣をつけたいと思う人はいないはずだ。愛したかどうかは他人では判断できない。愛した人も愛された人も、実際は判断できない。どう受け止めるかだけのことだ。人には判断できないものがある。そういう不可思議な部分があることがいいと私は思う。
星野監督はピッチャー出身だから、投手の状態はよく把握しているはずだ。しかし、素人の私にはその投手起用がよくわからない。ダルビッシュや田中という若いピッチャーの起用も、大事な場面でのベテランの起用も、私には不可解なことばかりだった。もし、選手の中に私のように監督に不信を持つ者がいれば、そのチームは本来の力を発揮するまでには至らないであろう。
星野監督は熱い人かもしれないが、選手の掌握ではどうだろうかと思う。星野監督がまだドラゴンズの監督の頃、巨人戦でグランドでの乱闘となり、当時巨人の王監督に星野監督が足蹴りをしている場面がテレビで放映されているのを見たことがある。私は星野監督にガッカリした。プロ野球選手としての王選手にもう少し敬意を持っていてもよいはずだと、私はその時思ったので、この時から星野監督が嫌いになった。
私は年功序列が大事なこととは思わないアウトサイダーであるけれど、年上の人やましてや功績のあった人を馬鹿にした態度は許せない古い人間でもある。リーダーとなる人はやはりそれなりの品格がなければならないし、ましてや仲間内から信頼される人物でなくてはならない。信頼される人物とは他人を正面から非難しない人だ。人の失敗を非難せず、許すことの出来る懐の大きな人だ。
それにしても、北京オリンピックの陸上競技で活躍する人々を見ると、たとえイギリスであってもフランスであってもポルトガルであっても、黒人であることには変わりない。黄色人種というのはやはり農業の人々のようで、陸上競技の力量には欠けるようだ。野山を走り回る黒人や白人の方が陸上競技の力が備わっている。だから私は、国別対抗戦のオリンピックはやめた方がいいと思う。個人競技に徹するなら、たとえ100分の1の差で勝敗が決まっても悔いはない気がする。それぞれにベストを尽くしたし、結果などはどうでもよいことになるのではないか。
人には運不運がある。巡り合わせもある。そんなことよりも全力を出し切ったことこそが尊ばれるべきだ。それがオリンピックの姿となるのではないだろうか。愛する人をトコトン愛したとしても、そんなことに優劣をつけたいと思う人はいないはずだ。愛したかどうかは他人では判断できない。愛した人も愛された人も、実際は判断できない。どう受け止めるかだけのことだ。人には判断できないものがある。そういう不可思議な部分があることがいいと私は思う。