goo blog サービス終了のお知らせ 

友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「シャガール展」を観る

2008年06月13日 18時53分49秒 | Weblog
 大和塾の皆さんと岡崎市美術博物館へ、「シャガール展」の鑑賞のために出かけた。「シャガール展」を観てもらいたいこともあったけれど、美術館の造りや周りの環境も味合って欲しいと思った。よい企画だと思ったが、いろんな都合もあり、全員参加とはならなかった。サークルではよくあることであり、仕方がないと思う。

 シャガールは日本では人気のある画家だからよく企画されるが、今回の作品はこれまでにないものが多かった。それに展示されている作品の数の多いのには脅かされた。驚いたことは他にもあった。作品に方眼紙のような線が引かれたものがあり、「アレは何か?」と尋ねられたので、おそらくこれは下絵で拡大するための線だと思うと、方眼紙の使い方を描いて説明していたら、係りの女性がやってきて「それはシャープペンですね」と念を押していく。なるほど、展覧会の会場ではボールペンやナイフやで作品を傷つける不心得者が時々いるから、その類と見られたのだ。

 作品の収集とともに展示の仕方もこの美術館はよく研究している。初めてここを訪れた人は美術館の外観やその周囲の庭園、そしてまた建物の構造などに大いに興味を示す。昼食は美術館内にあるレストランでランチをとった。食べながらいろんな話題が次々と展開していった。それが大和塾の皆さんの良いところで、関心の量も多く質も高い。西洋人が日本人の食生活を知ったなら、「うまい」と思い真似をすると、さらにいっそう食糧危機は進行するだろう。日本人が西洋人並みの質素な食生活を受け入れれば、食糧自給率も70から80%になるんじゃーないだろうか。

 そんなたわいのない話ばかりだが、「これだけ医学が進歩したのだから、あなたの寿命は後何年と診断できんものですかね」と言う人がいた。「そんなことができるようになれば、精神障害の人がどっーと増えますよ。いつ死ぬかわからないから、少しずつ死の準備ができて、死への恐怖が薄らいでいくのですから」。そうだろう。もし、自分の死期がわかるようなら、死にたくないと発狂する人や秋葉原の連続殺人のように他人を巻き込んで死んでやるという馬鹿な人がもっと生まれてくるだろう。

 「変な時代だね」と言う。「いつごろからこういう兆候が出てきたのか?」。「現在、40歳から35歳くらいの子どもたちからか?」。「えっ、それくらいの子どもの親は60歳代の私たちじゃーない」。「どうやって子どもたちを育てたの?」。「勉強しないとえらくはなれないわよ!と言ったのかしら」。「そう言う親が多かったんでしょうね」。「ウチなどは勉強しなくてもいいと言って育てたんだけど、その子は自分の子どもには勉強せよと言うのよね」。話は尽きない。

 美術館の周りの散歩道をそぞろ歩き、もう一つの東公園で花ショウブも見学し、無事帰還した。明日はまた、井戸掘りである。頑張らないといけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風間杜夫の一人芝居

2008年06月13日 09時10分06秒 | Weblog
 今朝、ブログを見ると昨夜仕上げたはずが掲載できていなかった。どうしてなのか、覚えていない。今日、大和塾の皆さんと岡崎市美術博物館へ出かけるのに、出欠席があいまいな人が多く、そのことが気になっていて忘れてたようだ。一日送れだが許して欲しい。

 「暇?」とメールをくれる友だちが、朝早く「書道展に行かないか?」と電話をくれた。今日は午前中なら空いている。午前9時半前に車で迎えに来てくれ、二人で県立美術館へ行った。書道のよさは私にはわかりにくい。どれもこれも「うまい」のではと思ってしまう。確かに筆遣いや墨の濃淡などで心惹かれる作品があるが、他の作品と比べてどうなのかと問われたら答えようがない。

 筆の勢いや文字の形でこれは好きとか嫌いくらいでしか判断できない。だからどうしても文字よりも書かかれた文章の方に気がいってしまう。おもしろい作品が一つ目に入った。全部を書き留められなかったが、最初の3行ばかりは次のようだった。
  
  「お前はお前で丁度よい。
   顔も体も名も姓もそのままお前に丁度よい」。

 こんな文章がまだまだ続くのだが、展覧会の会場では写真を撮られないし、メモすることも気がかりで、ここまでしか覚えていない。後は、たとえば得たものと失ったものというようななかなかいい言葉が続いていた。

 書道をおもしろいなと思えたのは初めてではないか、そんなことを思いながら、今日のメインである名演の会場へと出かけた。今回の催しは、風間杜夫の一人芝居である。かつて芸文センターの地下小ホールで、岐阜の人が演じたひとり芝居を見たことがあるけれど、それはドストエフスキーの作品のような重い芝居だった。ひとりで90分も演じることはなかなかできることではないと思った。

 風間杜夫という役者がどんな風に演じるのか、脚本はどんな流れなのか興味深かった。見終わってみると、風間杜夫は映画やテレビで見るよりも演技の幅が広くいいなと思った。風間が演じる主人公は記憶喪失になった男で、旅回りの一座の仲間であった。それが座長の奥さんと駆け落ちすることになってしまい、挙句にその奥さんはすごい資産家の娘で、主人公を養子に迎えようという設定である。

 こんな願ってもないうまい話を主人公は蹴って、今度はホームレスと一緒に生活するようになる。ここではフォークソングも出てくるし、小林旭の演歌も出てくる。会場の観客と風間が一緒に歌うことになり、どういうわけか私は涙が止まらなかった。

 フォークソングから演歌まで、いやいや落語もこなす風間の演技力にはビックリした。芝居の中でも、名セリフだなと思ったものもいくつかあったのに、今は思い出せない。それでも風間がテーマとする(?)団塊世代の生き様がここかしこに見えておもしろかった。自分の思うように生きてみる、それから考えてみてもいいじゃないか、そんなことを考えさせる芝居だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする