蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

パサパサした関係

2008-12-10 | 読む人々には興味ない話
なんの関わりのない人でも、興味を持ったり、関心があったり、
気になったりする人がいる。

その逆に、お知り合いなのに、全く価値観も感性も、なにひとつ合わない人がいる。
(生き方や、生活態度がまるで違って相容れない、大嫌な人は、論外として)
フィーリングが合わないだけ?

そんなことは、ないと思う。

フィーリングは合わなくても、
ゲンキだったり、前向きだったり、一生懸命に生きていたりしているのを知って、
影響を受けたり、尊敬できたり、共鳴できたり、パワーをもらったり、
生きている人間同士だもの、そういうこともあるはず。

でも、そんな事が全くない、というのは、なぜだろう。
お互いになんの共通点もない。
それはそれで、ケンカするわけでもないし、無関心のスタンスで、
じっと、距離を保って生活していればいいのだろうけれど。

しかし同じ人間なのに、しかも知り合いなのに、
なぜ、こんなにも興味や関心や感性が違うのか?
それは、お互いに近寄ろうとしないから。
お互いをさらに知り合おうとしないから。
コミュニケートしようとしないから。

人は、感情や、本能的なものに突き動かされない限り
意識しないと、引き寄せたり、接近したりするパワーを発生しない。
近隣住民だったり、同じ職場だったり、出入りする場所が一緒だったり、
地縁、血縁が重なる場合、
かんじいい人だと、お互いに気に入ってもらおうとする努力をする。
その方法は、会釈や挨拶からのスタートでいい。
そうすることで、無関心だったものを、
コミュニケーション・エネルギーに転換することができるのだと思う。

(明らかに変人、嫌われ者に対しては、
わざわざ好かれる努力をする必要はないだろうけれど)

自発的なコミュニケーションの努力をしないと、
縁がある知り合いとでも、まったく、接点のない、
パサパサした関係になる。
知り合った後も、やはり、接点がないことがわかることもある。
お互いに全く、興味の無い、まるで理解できない人同士になる。
理屈ではなく、感情として相手を好きになれないからかも知れない。
悲しいかな、そんな人は、ごろごろいる。

そうでない関係の人々、
どちらかが、あるいは、双方が、
コミュニケートしたいと意識して接する人々は、
宝石箱に入れて、大事にしたい。