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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

雲を詠む漱石

2012年09月18日 | 読書


本日の気温33℃、この旬日30℃を下回ることはない。雨が降らない、畑の野菜たちが悲鳴をあげている。空を見上げるのが慣わしになった。さすがに入道雲は姿を消している。白い筋雲が、西から東へと動いている。たしかこの雲は天気の変わり目に現われるとのことだが、東日本に居座っている高気圧のため、まだしばらく晴天高温の秋が続きそうだ。

夏目漱石は正岡子規と親しくなったために俳句を作るようになった。
子規との交友が始まるのは、明治22年のことである。5月に子規が喀血して、肺結核であることが分かり、漱石は病床に子規を見舞った。そのときに詠んだ俳句が

聞こふとて誰も待たぬに時鳥(ほととぎす) 明治22年

この句を読み解くのに必要なことは、時鳥が肺結核の代名詞であるということだ。時鳥が鳴くとき口の赤い部分を見せるので、血を吐くように見えるからである。子規の不運、結核を誰も待ってなどいないのにな、頑張れよと激励しているのだ。

秋の雲ただむらむらと別れかな  明治28年

子規は、若くして結核になり、その後も病から抜けでることはついにできなかった。明治28年従軍記者として、日清戦争の陣中に赴くが、その疲れのため帰途の船中で喀血、神戸に着くも喀血がひどく神戸の病院に入院、闘病の日を送った。その後、退院するが療養をかねて漱石の下宿の逗留した。ここで、子規は松山の俳人を集めて、句会を毎週開き、旺盛な句作を行う。漱石はそれに刺激されて、句作に励んだ。この句は、松山での逗留を終え、東京へ帰っていく子規への送別の句である。

空に一片秋の雲行く見る一人   明治29年

漱石は空の雲を見るのが好きだったようだ。松山には雲の形で天候を占う俚諺がたくさんある。「温泉腰巻・阿蘇頭巾」は温泉岳の山裾に雲をまとうときと、阿蘇山に雲をかぶるときは雨になるという意味である。「綿雲は晴れの兆し」など、松山の人々は雲を見て、明日の天候を占った。漱石もそれに習って、雲をひとり眺めたのであろうか。

秋高し吾白雲に乗らんと思ふ   明治29年

空を眺めるのは、観天望気だけが目的ではない。白雲の向こうにあるのは仙境、つまり理想郷だ。『荘子』に「白雲に乗りて帝郷に至らん」とある。帝郷はすなわち理想郷である。漱石は、この故事を詠み込んで、白雲に乗って理想郷へ向かう己を詠んでみたのだ。漱石にとっては白雲は、魔法の絨毯のように、苦しい現実を逃れて安楽の地へ向かう最新鋭の乗り物であった。

ひやひやと雲が来る也温泉(ゆ)の2階 明治29年

「三四郎」で2階の窓から美弥子と三四郎が白い雲をみる場面がある。美弥子はその雲を駝鳥の襟巻きに似ているという。三四郎が雲は雪の粉だよ、と科学的な知識を披露すると、美弥子は「雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くから見ている甲斐がないじゃありませんか」
漱石は、美弥子がいうように、雲をただ眺めるのが好きであった。それだけに、雲を詠んだ句が、実に印象的だ。

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