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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

手毬

2012年09月02日 | 読書


夕方になった久しぶりの雨。気温も少し下がる。
人生には、時に不思議な体験をすることがある。昨夜、遅くまでs女史宅でご馳走になって帰宅、すぐに就寝したが、2時ころに目をさます。8月の前半までは、時おり3時ころに目を覚ましたが、お盆を過ぎると5時過ぎまで寝てしまい起きだすことはない。やはり、ご馳走になったビールのせいかも知れない。

目を覚ましたついでに、読みかけだった瀬戸内寂聴の『手毬』を手に取って読み出した。『手毬』は晩年の良寛と師弟の契りを結んだ貞心尼との交歓を描いた小説である。読みかけてすぐに、良寛の歌が目の飛び込んでくる。

離れた庵に住んでいた師弟は、歌のやり取りで心を通わせていた。
貞心尼が送った問いかけの歌は

いかにせむまなびの道も恋くさのしげりていまはふみ見るも憂し

仏を学ぼうと思うのですが恋の思いが邪魔で、お経を読むのもいやになります。どうしたものでしょうと、問いかけた歌に、師の良寛は

いかにせむうしにあせすと思ひしも恋の重荷をいまはつみけり

牛が汗を流すと思うのですが、いまは恋草を車に積んでいるのですと、憂しに牛をかけて応えた。「恋草を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」を元歌に、恋の重荷は汗をかくほど重いのがよいのだというのが師の答えである。きのう書いたブログの「恋の重荷」は、この師弟の歌の贈答で、もうひとつ意味が深まった。恋は退けがたい障害を、けなげに乗り越えて初めて成就するという考えが根底にあったのであろう。

臨終を迎えた良寛を看取る貞心尼の献身は、この小説を読むものの心を揺さぶる。私は読みながら流れてくる涙をとどめえなかった。きのうのs女史が語ったご主人の臨終にも、共通して死を迎えている人間の尊厳が、美しいものであることを教えられる。

「明け方近くにになって、壁ぎわでうとうとしていたら、良寛さまがお目をさまされ、
「背中が寒い」とおしゃった。しらべてみると、夜具は肩までかかっていてすき間もない。それでも寒いとくりかえしいわれる。
私はつと、掛け蒲団を持ちあげ、良寛さまの寝床へ軀をすべりこませていた。
背後からぴったりと添い臥し、自分の体温で良寛さまの背をあたためた。右手を良寛さまの胴へかけ、重くならないようにやわらかく抱いた。氷のように冷えきったお脚に自分のほてっている脚をからませてあたためてあげる。良寛さまはゆったりと軀をくつろがせたまま、私のすることを何もこばまれなかった。

貞心尼の献身的な看病で一時危篤状態を脱したが、死を覚悟した良寛は薬も食事も絶ってしまった。辞世は、という貞心尼の問いかけに

散る桜 残る桜の散る桜 とつぶやきそのままひきこまれるようにすとんと眠りに入った。

目覚めて1時間少しの読書体験であった。おそらく、こんな感動は今年一番のものになるだろう。ブックオフで買った105円の文庫本である。この本にたどりつくには、斉藤慎爾さんの『寂聴伝』があり、寂聴の『かの子繚乱』、『炎凍る樋口一葉の恋』『夢幻煩悩』などの読書体験があった。すでに古稀を迎えた世代の関心が人間の死に向かっているのだが、こんな偶然が三つも重なる体験は貴重なものに思える。

瀬戸内寂聴の歯切れのいい文体は、実に心地いい読後感を残してくれる。読み進むうちに、寂聴が貞心尼に乗り移ったような錯覚さえ覚える。出家した寂聴でなかれば、読みとくことのできない尼僧の心ひだのようなものが見事に描かれている。
コメント
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