狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

霊について少々

2014-08-04 13:54:48 | Weblog
サムエル記、アブシャロム氏の死が伝えられる場面に注目する。
私は後から出た使者にわざわいの霊を見る。 アブシャロム氏の死、
霊の持つ衝動、先の使者を追い抜いた事、後から出た使者である
にもかかわらず伝える情報に不備があった点などがその理由。
ダビデ王の息子の死を知った際の衝撃を、多少は和らげただろう
作用があった点にもなんらかの計らいを見る。
だとするとこの霊、憑いていたのだろうか、の見た場面つまり、
彼の後から来た先に出た使者の報告を聞いたダビデ王の嘆き、
これに目的性を見る。 神様はわざわいの霊を教育しようとして
いたのではないのだろうか、と。

私が輪廻、転生、復活をどう見ているか。
私はこれらをそれぞれ別の霊現象としている。
輪廻は食物連鎖に相当するもの。 霊は元の状態、自己規定を
保ったまま従霊として取り込まれる。 取り込まれるプロセスは
生物学的な捕食だけに止まらず文化的社会闘争的捕食でもこれが
起こる。
転生。 従霊が通常の性交渉などにより子として生まれてくる現象。
ある人に入った霊が励起状態になり子になる事を望むこれが恋愛。
子が生まれてくる時点で霊同士の恋愛は成立しており当事者主霊が
これを否とするのが強姦、当事者集団、一般には親族、が否とする
のが周囲に望まれない結婚だとすると強姦と略奪婚の違いは霊的
には規模の差だけだとなる。
復活。
強い意志、欲求を持った霊が従霊を纏い人となる。 ある日突然
社会に大人の人間、子供でも老人でも起こりうるが、が現れる。
出現した人間の社会状況の多く、当人の記憶も含む、は纏った
従霊に大きく左右される。
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「悪口」を云々する人たちに見る、徒党を組む懲罰行動への嗜好

2014-08-04 11:06:48 | Weblog
福音書からちょこっと。
洗礼者ヨハネからイエス氏が洗礼を受ける場面。 ここに大半のキリスト教徒は
ヨハネ氏とイエス氏の、そして天とイエス氏との二通りの関係を見るだろう私は
そうはなってはいない。 私はこの場面に六通りの関係を見るつまり、
・神様とヨハネ氏
・神様とイエス氏
・神様と天
・ヨハネ氏と天
・イエス氏と天
・ヨハネ氏とイエス氏

こうである。 そして天とイエス氏の関係は「傀儡」だろうとする。 天が傀儡
イエスを「わが子」と呼ぶそれと平行して神様の異言があるそういう見方であり、
それが次の場面ともなっていると。 順番がおかしいのだ。 イエス氏が「養子」
相当であると認められる云々であるのなら悪魔の試しの後の方が妥当でありまた
そうではないのなら悪魔の試し、地上を見せて云々、が試しになっていない。
だがそういう順番で事が起きており、そしてヨハネ氏が死ぬ。

さて所謂パレスチナ情勢。 今回のこれとこれまでのそれとの違いをアイアン・
ドームの存在に見る。 トンネル潰しの水壕案、ガザ地区の東側を南北に海水
運河を掘りそこに沿って定期的に戦車を走らせる、は採用されなかった模様。
実際にやるなら戦車の後ろにトンネル探査用の、地中を聴音する車か何かを
付いていかせる、時々運河から水を抜いて空掘りにし岩盤圧の変化でトンネルの
劣化を促進させるなどの措置が必要かもしれない。 それはそれ、机上の話。
アイアン・ドームを巡る報道。 少ない、というか扱われ方が「脇のネタ」と
なっている。 これをどう見るかだが、私はジャーナリストや人権活動家らは
所謂パレスチナ問題の存続を、暗に期待しているのではないかといった疑念を
持つ。 もちろんイスラエル人たちもハマス・メンバーらも、各個好む好まざる
の差はあれど「固定化したパレスチナ問題」を自分たちの居場所としているのだ
ろうけれども。
「常識の存続に安心する」って所だな。

「悪口は人の心に穴を開ける行為である、だから自分はしない」とした文言を
ネットで拾った。 一見麗しい。 だが何かがおかしい。 おかしいはずなので
考えてみた。 すると以下のようにまとまった。
・状況認識が間違っている
・発想が呪術的である
・行動の線引きが無く倫理基準たり得ない

んで思うわけだ。 これ造敵思想なのだと。

さて思想云々の前に挙げた物を説明しよう、まず状況認識。
悪口は人には刺さらない。 言った人間の周囲を漂い多少の嫌な雰囲気をもたら
したりもたらさなかったりはする。 気づかない人、気にしない人には何も作用
しない、その時点では。 刺さらないのだ。 人の心に刺さるのは悪口ではなく
事実である。 自身の事実を見ないようにして暮らしてきた人たちが「穴が開い
た」と認識するのだろうこれは同じような表現をされるものつまり親しい人など
の死と比較してみると判ると思う、世間にあふれる悪口にそうした効果は無いが
都合の悪い事実を目の前に突きつけられるとおそらくは世界観が破壊される。
いや、実は私と他人と精神構造が違っていて実際には大多数の人は毎日蜂の巣
状態になって暮らしているのだと言われたら「ああそうだったのか」とし訂正の
文章でも推敲するより他無いが。

呪術的発想。
「状況認識が間違っている」というものの派生ではあるが直接作用の有無に
かかわらず「彼はこうなるはず」とするのは、仮に紆余曲折を経た結果そうなる
事が経験則として成立していたとしても発想は呪術の類。 呪術発想が倫理的に
どう悪いのかは考えるのがめんどくさいので踏み込まないが、そうした発想を
仮定の説明無く持つ人には知性を期待出来そうに無いとは思う。 なんとなく。

倫理基準上の線引きが無い。
ただ「悪口」とだけある。 悪い評価全般がそうだと言うのならば「私は他人の
評価を一切しない」が行動の基準となる。 不特定多数から見て悪口と見られる
行為全般がそうだとするのならば「私は悪口の場である芸能界に一切関わらず
テレビも見ない」が基準となる。 また立場の違う相手に対する自身の側を正と
する発言がそうだとするのならば例えば「私は政治活動の一切に参加しない」が
基準となるだろうだが私の見た文章では悪口とだけあった。

私は悪口を多用する。 こうした書き物をする方の人間としては割と多く使う方
だろうと思っている例えば「大英帝国は人類社会の癌だった」「中国は遅れて
きた帝国主義ではなく生き延びてしまった古代帝国だ」「朝日新聞は奴隷商人」
「関西暗黒伝」「団塊武勇伝」「まるでデトロイト」「韓国」などなど。
私の他に隣人の悪口を多用する人たちをどこに見るか。 日本だと「平和運動の
活動家」らがそれに当たるとここに書く。

ニーチェ氏はキリスト教を「強者を悪とする宗教だ」としたそうなのだが私は
ここに見るような「他者を悪とする造敵的発想」をキリスト教固有の物ではなく
駄人の特徴だと見る。
さて悪口には問題がある、という認識はさほど間違っては居ないとする。 悪口
の悪い作用は言う側当人周辺の雰囲気が悪くなる点だけにある、周囲なのでそれ
に巻き込まれる人も居るだろうご愁傷様と。 社会問題に発展するのは次の段階。
徒党を組んだ懲罰的行動である。 つまり悪口が社会問題だと認識する人たちは
実は悪口が懲罰行動に直結する人たちだとなる。 私式にタイトルをつけるなら
差し詰め「レギオンの敵意」といった所か。
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