狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

アメリカ四ツ首案(没案)

2013-06-14 14:18:20 | Weblog
中国に対する日本人のそれが判りにくいみたいな話を見た。
私の考える中国の、直近のあるべき姿は
・繁栄:崩壊
・外交:破綻
・内政:安定

こうなる。
そして欧米人の求めているそれはちょうど逆になっていると見ている。

さてアメリカが四ツ首だった歴史も在り得たと書いた。
これを突き詰めてみると面白い。 地政学、歴史条件上むしろこちらの
方がより自然に思える。 色で書くと現状アメリカが白で欧州が黒だが
アメリカが黒、裏社会や肌の色といった意味での黒ではなく伝統文化を
解釈する上での分類、諸派連合色が強く欧州が白、統一され唯一の超
大国として君臨する状態、の方が「合っている」のではないかと。

黒のアメリカの歴史はどのよなものになっていただろうか。
簡単なのは南北戦争で南側が勝ち、その後「奴隷戦争」とでもしたもの
か、のような混乱期を経てアメリカ黒人たちの地位が、現在の政治的
マイノリティ分類ではなく農業から教育から司法まで黒人のみでの基盤
をアメリカの一部に持つようになってた、そんな感じのものと。
これを天使論に当てはめるとアメリカには白派天使と黒派天使とが居て
対立状態に在る、となる。 こうすると私が黒派に非常に同情的で
そして白派を、ある種の駄目な連中としているという構図が、現在の
色々書いているものの解釈となっていると。

白派がどこから来たのかだがこれはもっぱら欧州から、となる。
19世紀までに創造されたものの多くが「欧州白派」を基準として出来て
居るように見受けられる。 私の初期配置もそうなっていた。
歴史を遡ればナポレオン氏が欧州白派筆頭で、そこから例えば信長氏、
豊臣氏、家康氏のようなパターンを経て統一へと到ったはずだと。
とするとヒトラー氏は欧州白派の残存勢力だわな。 だから持っていた
「預かりもの」が古かったのだと。
では何故欧州は「そう」ではなくなったのか。
まああそこなんだろうなと見る。 わたしがあそこの国を嫌っているの
とアメリカ黒派に同情的なのはセットなんだな、となる。
アメリカ黒派と日本のキチガイサヨクに対する感情の違いはおそらく
恭順姿勢の差なのではと。
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ため息をつく

2013-06-14 13:58:47 | Weblog
色々と動いている。 「天使たちが猛っている」とでもする所か。
天使たちにしてみれば邪神たちと刺し違えて新しい世界が出来るのなら上々
と言った所なのだろうし、邪神たちにしてみれば天使たちが血塗れになって
自分たちのところまで堕ちてくるのは願ったり叶ったりだろう。 結果戦後
の世界は二分される。 新しい世界と旧来の世界。 旧来の世界の続きは
どういったものになるかだが、私はこれを家の外にスポーツカーがあり家の
中にドレスがある、家の外に出ると詐取と裏切りを警戒せねばならず備えて
も結局奪われ、家の中には互いの不和と二心と嘲笑がある、そんな世界だ
とする。 これまでとの差はそこに居た「モラルの人たち」は居なくなる事。
それが最大、というかある意味唯一の違いであろうが、スポーツカーを誇る
人たちはそれに、そうした違いが発生した事に気付かないだろう。

天使筋と旧神筋とは憎み合っている。 至極単純な事実。
結果は両方堕ちる。 「私たちは違う」と言うモノたちが居ても「かつては
そうだったのだろう」と言われておしまい。

キリスト教徒はユダヤ教徒にに対し「我々こそが新であり彼らは旧である」
と言う。 イスラム教徒はキリスト教徒に対し「我々こそが新である」と
言いキリスト教徒はそれに「我々こそが真であり彼らは偽である」と言う。
プロテスタントはイスラム教徒に対し「我々こそが新である」と言うと。
リベラル教徒が一神教徒を嘲笑するが私が彼らを嘲笑する。 私一人。

さてどうしたもんかと考える。 今何を書くか、だが、やっぱ経済だろうな。
前回、クエーカー教徒の村と書いた。 行った事が無いので空想上の存在で
しかないと言われても反論は出来ない。 またクエーカー教徒だけでお金の
無い経済のようなシステムが成立しえたとしてもそれは狂信者たちだけの
特異な閉鎖社会、ミクロな社会の内部でしか成立し得ない現象だと言われる
かもしれない。
ここで紹介するのが江戸っ子である。
江戸っ子は宵越しの金は持たないと言われていた。 その日稼いだ金はその
日の内に使い切ってしまうのが良いのだと言われていた。 ファッション
スタイルの一種ではある。 だがそれ、そうした生活はそこでは成立し得た。
直近に入用な物が無ければ隣人に借り、困った時は隣人たちの手を借りた。
江戸は四半千年続いた百万都市である。 これはマクロな経済圏と言っても
良い規模だろう。 貨幣以外による擬似経済はそこでは成立した。
さてそれは在った。 国の経済全体からすれば部分的にではあるが、存在
し得た。 これに対しては「今更江戸時代には戻れない」「現代社会は複雑
すぎて貨幣無しなんて考えられない」と言う人も多いだろうと見る。 これ
に対して私は、災害時の日本人の行動を挙げる。 彼らはお金ではなく動く。
彼らは皆現代人であり現代社会の延長上に災害時の行動原理を持っている。
こうした現象は別に日本だけに在るわけではないと見る。
ただし現状、世界は「そう在るべく」なっていない。 逆に、「金である」
「欲である」べくなっている。 まったく、どうしたもんかである。
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