大佗坊の在目在口

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盛岡 三ッ岩と烏帽子岩

2019-10-09 | 

鬼の手形が残るという大岩のある三ッ岩神社に行った。
 
盛岡砂子に三岩大明神として「傳云昔、信直公太祖、光行公の神霊を爰に勧請し給ふと云。後 利直公神領御寄附有。黒印に為三石掃除料五拾弐石令寄附者也」とあり、さらに「抑三石は其形均しく蘶々として高さ弐丈計廻り三丈計にして根は却て細く三石偕に危立す、平垣の地に有て実に奇といふへし、当村を三割村といへとも敢て裂たる石にあらす、會て三石野村と云しを此神号を避られたるにや、村名を三割と改られし也」と三割村の名もここから生じたとしている。昔、羅刹という鬼が住んでいて、暴れていた。困り果てた人々は、三ツ石様に悪鬼の退治を祈願した。 その願いを聞き入れた神様は悪鬼をとらえ、二度と悪さをしない証として、境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させたという。この地は鬼が二度と来なくなった場所という意味の「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになり、また鬼が岩に手形を押したということから「岩手」という名前が出来たとも言われている。また、鬼の退散を喜んだ村人が、「サンササンサ」と三ツ石の周りを踊ったのが「さんさ踊り」の始まりとも。さんさ踊りは本来、三十三(サンサ)種の踊りがありそこから「さんさ踊り」と呼ばれたとも云う。さんさ踊り唄の囃子詞、サッコラチョイワヤッセーの掛け声が面白い。手形を残したと云うインド神話における鬼神でもある羅刹という鬼の正体は何者だったのだろう。大きな石には神が宿るとする巨石信仰や東北地方には坂上田村麻呂や源義経と結び付けた説話が多い。柳田國男の山島民潭集に「陸中盛岡ノ東見寺(東顕寺)ノ境内ニハ此人(義経)ガ馬跡ヲ留メシ名石三ッ石アリ。以前ハ人ノ拝祀セシ石ナルベシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ形ヲシタル大小三個ノ石ニシテ、之ヲ拝ミシ根原ハ是亦竈ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義経ニハ兎ニ角ニ馬ノ因縁ハ存スルナリ」と盛岡の三ツ石が収録されている。竈ノ神に別名は三宝荒神、三つの神様として三ツ石を信仰していたのだろうか。大石の周りを回って鬼の手形を探したが何所に在るのかわからなかった。
 
巨岩はほとんどが火成岩花崗閃緑岩で、岩手山の火山噴火で、巨岩が21kmも飛んできたことになる。地質調査総合センターの地質図を見ると盛岡城址、上盛岡駅付近、岩山西側はすべて同じ花崗岩地質で、掘り返せばまだ巨岩が出てくるかも知れない。
岩手護国神社に寄って烏帽子の形をした盛岡の守り神がある桜山神社に行く。
 
 
寛延二年(1749)、南部家三十三代利視は盛岡藩初代(二十六代)信直の遺徳を偲び、新たに腰曲輪東、盛岡城本丸東側淡路丸に信直の神霊を勧請し「淡路丸大明神」と奉ったのが始まりだという。盛岡藩第十一代利敬が文化九年(1812)、淡路丸が桜山と称されていたことから「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同十五年(1818)、南部家初代光行を合祀、大正元年(1912)、盛岡藩二代利直、同十一代利敬を合祀して四祭神とした。
 
 
盛岡城築城の折に大きさ二丈ばかり突出した烏帽子の姿をした大石が出現、この岩を瑞兆と慶び、それ以来様々な神事が行われ盛岡のお守り岩として親しまれているという。

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