大佗坊の在目在口

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盛岡 東禅寺から永福寺

2019-10-02 | 

聖寿寺から歩いて、5.6分で東禅寺に着いた。門前に南部二十七代南部利直公墓所の石柱があった。
 
 
盛岡砂子によると「東禅寺 京都妙心寺末、臨済宗本寺は遠野附馬牛村東禅寺是也、開山を無盡昭尚、建武年中(1334~1335)草創也。遠野本寺大英は利直公寛永九年(1632)御卒去の時、遠野より三戸に至て御引導を勉む。其後重直公盛岡へ御移の時、同時に大英盛岡に此寺を草創す」とあり、郷村故実見聞記に「御遺骸江戸より御下り三戸聖寿寺に葬、行信公(三十代)東禅寺に改葬」ともある。また盛岡の邦内郷村志に「傳云。十三代禪高法師守行公以来之菩提寺也」とあり、寛政重修諸家譜にも「守行 永享九年(1437)四月九日卒す。祖山禪高東禅寺と号す。閉伊郡遠野の東禅寺に葬る」とある。守行は釜石近くの上閉伊郡大槌城を攻めていて流れ矢に当り薨ったと伝わる。二十四代南部晴政の代の天文八年(1539)、三戸の居城火災に掛かり、累代相続の証文等焼失し古い時代の事は判らないという。邦内郷村志閉伊郡の部に「成就院東禅寺末寺」と出てきた。九代祐政、十一代信長、十二代政行の埋葬地は鎌倉の成就院だと思い込んでいたのでビックリした。この東禅寺は八戸の自在山東禅寺(根城南部氏菩提寺)なのか盛岡の大宝山東禅寺なのか、それともほかの東禅寺なのか判断付かないが、結局、遠野東禅寺の建立時期も諸説ありどこの東禅寺だかはっきりしない。南部氏は二十六代から二十八代にかけて、津軽為信との抗争や同族の津軽波岡南部氏、根城南部氏、八戸南部氏との主導権争い等もあり、各南部氏がゴチャゴチャになり余計分からなくなってしまった。東禅寺には二十七代利直(南宗院殿)、三十一代信恩(霊巌院殿)、三十五代利正(義徳院殿)、三十七代利用(養徳院)、三十九代利義の墓碑が本堂を取り囲んでいる丘陵の林の中にある。
二十七代利直(南宗院殿)
 
 
左)三十七代利用(養徳院)        右)三十九代利義墓
 
この五人の藩主の菩提寺を東禅寺にしたのはどうしてだろう。盛岡藩主の菩提寺が聖寿寺と東禅寺に分れているのは何か隠された理由があるのだろうか。南部氏二十七代利直を除き、治国の間に重大な問題があった藩主や、前の藩主と継承が上手くいかなかった藩主が多く、藩主だった期間がいずれも五年以下と短かった事と関係があるのだろうか。一人で墓域を廻ったが、獣が出そうな感じだったので、半分で引き返し、南部氏代々の祈願所でもあった永福寺に向かった。
邦内郷村志に「寺領八百石、是為邦内諸古刹之冠也。故寺格無出其右者」とあり、永福寺が藩内の由緒ある古い寺で第一に古く、寺格も一番だという。神社だかお寺だか分からない永福寺の入口に戸惑う。
 
 
邦内郷村志に「重信公(南部氏二十九代)貞享三年(1686)御造営也。慶長元和之頃(1596~)従三戸御移。後寺、建今之地。延宝八年(1680)縁起古記焼失。故傳草創」とある。お寺で貰ったパンフレットには「元和三年(1617)に盛岡城の鬼門鎮護の祈願寺として現在地(山岸)建立云々」とある。お寺の説明板に永福寺の開基は坂上田村麿将軍が東征の砌、「聖戦勝利、国土安泰」の祈願の為に「十一面観音菩薩」をお祀りして建てられた「奥州六観音」の一つで「楢崎観音」と呼ばれ延暦十九年に今の八戸市七崎に建立されたお寺だという。三戸移転後、盛岡城築城と共に山岸に移り、七崎を普賢院、三戸を嶺松院と称している。明治の神仏分離・廃仏毀釈により、現在の本堂は昭和二十二年に再建されたものだという。

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