大佗坊の在目在口

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越前一乗谷

2018-08-03 | 

朝倉氏の居城であった一乗谷は九頭竜川の支流足羽川のまた支流、一乗谷川を挟むように住居部分を構成し、谷の両出入り、南北の狭い部分に巨大な石垣や土塁で城戸口(上城戸、下城戸)を設け外部と遮断している。
 
 
 
 
 
文化庁データベースによれば「一乘谷城山ノ南北麓ニ在リ今二箇所ニ其阯ヲ留ム一ハ三方ニ腰石垣土壘ヲ繞ラシ外方ニ濠阯ヲ存ス又園池石組等ヨク殘存シテ舊規ヲ見ルヘク正面ニ唐門アリ一ハ西南一町餘ノ山麓ニアリ諏訪舘トス義景ノ妻ノ別邸阯ト傳ヘラル園池瀧ノ石組等アリ上ノ園阯ト共ニ古園ノ形態ヲ留ム。朝倉氏舘阯ノ東方高所ニ南陽寺阯アリ義景ガ足利義昭ノ爲メニ觀櫻ノ宴ヲ催セシ處ト傳ヘラル舊時ノ庭園ノ一部ヲ存セリ。
 
昭和5年に朝倉館、諏訪館、南陽寺、朝倉敏景墓、城跡、上・下城戸跡が指定、昭和46年、さらに館跡、家臣居館跡、御所跡、寺跡、神社跡、櫓跡等と平地の東西に迫る山の部分を追加指定し、これに史跡西山光照寺跡を合わせ、戦国大名の拠点の形態を総合的に保存しようとするものである。なお、これを機会にあわせて特別史跡とするものである」さらに「一乗谷に拠地を構えた北陸の雄朝倉氏は、天正元年織田信長にほろぼされたが、かつては将軍足利義昭もここに庇護を求めた。南北に長い山[[間]あい]に一乗谷川が北流し、帯状の平地が続く。このような地形は、防備しやすく、中世豪族の拠地として好んで選ばれたのであって、その典型的な例が本史跡である。一乗谷川の右岸の[[館]やかた]跡は、すでに史跡および名勝に指定されているが、これに[[城戸]きど]跡および城跡を追加指定し、拠地の総合的な保存を行なおうとするものである。城戸は館の北(下城戸)と南(上城戸)にあり、谷を東西に横断する防壘である。この両城戸の間は、約1.5キロメートル、一乗谷の中枢部で城戸の内といわれている。いま一部は取り払われているが、旧観をとどめ、下城戸で巨石の石垣が[[喰違]くいちがい]を構成しているのは偉観である。城は館の東背部にそびえる一乗城山(標高435メートル)の頂上部に築かれた山城で、本丸等の四郭が尾根上にあり、また千畳敷、観音屋敷、調練場等の[[郭]くるわ]が配されている」と詳細な説明があった。
 
 
上城戸跡は土塁、下城戸跡には石垣が残っている。想像していたよりこじんまりした上城戸、下城戸間1.5kの隠れ谷みたいなところに何人の家臣が住んでいたのだろうか。今は跡地になっている所に井戸の跡がやたらと多い。人口密度が高かったのか、冬の積雪の激しさのせいか、山に囲まれた谷の城下では沢も多く、また一乗谷川も上城戸、下城戸間の標高差24mありかなり急な流れだが、水には困らなかったと思うが、一屋敷に一つの井戸と小さな区割りの井戸、主な家臣団の屋敷と城下内に町屋があったとしても、大した人数ではなかったのではないだろうか、井戸の数の多さが不思議に思った。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄った。年寄は無料なのが嬉しい。ここで出土された2万7千枚もの前漢から明時代の銭、85種が展示されていた。家に戻った時、急いで通貨カタログで価格を見てしまった。

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