大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

福井 藤島神社

2018-08-23 | 

福井城の裏鬼門の方向にあたる足羽山を取り囲むように神社仏閣が多い。その中で新田義貞を祭神とする神社、藤島神社が在った。新田氏なのに藤島とあるのが気になって足羽山招魂社の帰りに寄った。
 
 
昭和16年発刊の福井市史に「新田義貞公御戦没地は、吉田郡西藤島村燈明寺畷なり。明暦年間此地より公の御兜を発掘せしを以て、萬治三年(1660)福井藩主松平光通此地に「新田義貞戦死之所」と刻せる石碑を建て、明治三年松平茂昭同地に一祠を建立し云々」とあり、明治九年十一月明寺畷の祠を別格官幣社に列せられ、藤島神社の社名を賜り、朝廷の祭祀を行はせられる。同十四年同郡西藤島村牧ノ島に遷宮したが九頭竜川の水害が頻りに起り、同三十四年五月、足羽山の現在地へ奉遷された。義貞戦死の時の兜の発見場所の地名が藤島だった。藤島神社で御朱印を頂いた。藤島神社の神紋なのか新田氏の家紋、大中黒が押されていた。武家の紋章は源平の白旗、赤旗の旗紋に始まり、幕紋などを通して家の紋がつけられ、定着していったと言われている。軍幕で使う幕は、ふつう幅五枚分の布で出来ており、中の三布を黒くして、上と下の二布を白くしたものが大中黒で新田の紋、白・黒・白・黒・白の五段にしたのが足利の二引両紋だという。藤島神社の大中黒の中黒が太いように感じたので藤島神社大中黒を計ると、幅六枚分の中四布を黒くしていた。中三布の大中黒を作って比べてみたら思ったほど差がなかった。
左)藤島神社の大中黒      右)中三布大中黒
   
義貞戦死の時の兜「鉄製銀象眼冑」は明治三十三年、国重要文化財の指定を受け、兜発見の燈明寺畷の旧藤島神社境内の福井藩主松平光通建設の碑がある場所は「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として史跡名勝天然記念物として国の指定を受けている。この兜は明暦二年(1656)、藤島郷の百姓が見つけて苧入れに使っていたのを藩士井原頼文が見て、錆を落としたら四十二間の兜筋に神々の名を列ね、裏に元應元(1319)八月相模国の八字が読みとれて、頼文はこの冑を燈明寺畷で自刃した新田義貞の冑と鑑定して四代藩主松平光通に報告した。この冑は「鉄製銀象眼冑」として明治三十三年、国重要文化財として指定されている。この冑を写真でしか見ることが出来ないが、庇の銀の象眼らしきものもあり、今でも非常にきれいな冑の原型を保っている。「義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る」また「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候」とは太平記(国民文庫本)の義貞自害の場面です。鎧が甲冑の甲だけを指すのかどうか不明ですが、鉄錆の1年間当たりの進行速度は、中性で微生物や電流の影響を受けない土壌中0.05mm/yと言われている。義貞自刃から冑、発見まで約三百年、約15mmの錆が出ることになる。松平光通は結城秀康の孫にして徳川秀忠の孫を正室としている。新田義貞遺物発見で、新田一門の世良田氏を家祖とした徳川将軍家を喜ばしたのか。明治に入り皇統は南朝が正統とされ南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが盛んに行われ、明治九年「別格官幣社藤島神社」として創建した。あちらこちらに気を遣うのも大変だ。
藤島神社から福井駅方向
 

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