福井市内でタクシーに乗って観光客とわかると、恐竜博物館に行ったかと聞かれる。恐竜博物館には行っていないが足羽山の招魂社には行きましたと答えると、たいてい茲で会話が切れてしまう。足羽山招魂社は足羽山神社から350mほど登った所にある。訪問した日は朝から小雨が降っており、招魂社はうっすらと霧が掛かっており、小雨に濡れた芝生と草木の緑が綺麗だったが、人けが全くなく、マムシでも出てきそうで気が気ではなかった。
福井市史稿本に「当社は元治元年(1864)京都堺町御門に於て斃れたる越前兵七名及明治元年戊辰の役に於て国難に殉ぜし福井藩兵十二名等の忠魂を弔慰んが為に、松平春嶽、茂昭両公相談し、足羽山に各自の墓碑を建設して招魂場と称し、明治三年九月茂昭両公自ら招魂祭を執行し、明治六年七月墓碑に代ふるに社殿を造営し、始めて招魂社と称す」とある。その後、足羽神社の説明によると、西南の役、日清・日露戦争の国事殉難者をも合祀し明治三十四年に官祭招魂社、昭和十四年には足羽山護国神社と称したが、さらに大東亜戦争における戦没者の霊を合祀し、昭和三十六年十二月、現在の足羽山招魂社に改められたと言う。
拝殿一面に氏名が刻まれていた。おもわず会津では評判が悪い文四郎の名がないか探してしまった。福井藩は元治元年七月十九日、京都で起きた禁門の変では幕府軍として長州勢と京都御苑九門の一つで御苑の南側、丸太町通に面している堺町御門で戦い、戊辰戦争では江戸城の無血開城のあと奥羽・北越諸藩による奥羽越列藩同盟が成立、五月二十二日、松平茂昭は会津征討の越後口出兵を命じられたが、茂昭は「初夏以来宿疾之脚気相発、近来別テ手足麻痺、甚敷起居難相成、殊更難儀仕候ニ付」として、軍事総管(家老)酒井孫四郎(與三左衛門)を出張させた。軍務官からの会津征討申達のとき、春嶽私記に「諸藩兵追々之出兵座視罷在、甚心苦敷存居候處、此度之被、抑出は武門之本意に候得は」と記している。春嶽は京都守護職を会津藩に無理やり押し付けておいて、会津討伐に武門之本意はないだろうと思う。春嶽が言ったという「我無才略我無奇」、常に勝者に寄り添う姿はやはり賢者なのだろうか。「春嶽と按摩のような名をつけて上をもんだり下をもんだり」と当時の狂歌に歌われたのも解るような気がする。七月四日、茂昭が脚気のため重臣本多興之輔を名代として藩兵百五十六名、夫卒六十名を越後口出雲崎に出兵させた。九月十日、渡辺隼人隊は勝方村、武曽権左衛門隊は青木村、林藤五郎隊は山崎に出張、若松に侵入した。福井県史によれば「越後口での同藩の兵員総数二〇三四人のうち戦死一〇人・負傷三二人」だという。境内に明治十六年十一月に建立された西南の役従軍供養碑「西南之役殉難碑」、西南の役に従軍し、戦死した岡島佐三郎の「岡島君佐三郎碑」供養碑があった。
福井県の西南戦争の戦死者百五十三人、うち警察官二十九人、壮兵(志願兵)五十二人、徴兵五十二人、その他および不明者二〇人で警察官はすべて士族だったという。
鈴木貫太郎筆「為萬世開太平」碑や太平洋戦争「鎮魂之碑」があった。