白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(290)エキスポランド「風神雷神」事件

2018-01-24 11:11:20 | 思い出
エキスポランド「風神雷神事件」

学生時代反万博運動(反パク)をしていたせいで大阪にいても万博には一度も行ったこともなく その後 万博の時のアミュージメント遊園地を手直しをして1972年営業を再開した「エキスポランド」にも入ったこともない僕が毎日「エキスポランド」に通うことになった エキスポランドの空き地に仮設小屋を建てて アトラクション「人が演じるお化け屋敷」の構成・演出をやった時のことだ 
エキスポランドの企画者泉陽興業さんが一度東映あたりに頼んだが莫大な予算案を言われたらしくそのころ私が顧問をしていたラビットプランニングのKに何とかしてくれと頼みに来た次第で平成15年から18年まで毎夏開いていた 
読売新聞が後援してくれて読売テレビではバンバン宣伝もしてくれ好評であった

大阪の仕事がない若い役者にとって丁度いいアルバイトで中には引退した役者さんが「ボケ防止」に老人役を引き受けてくれたこともあった
こちらも日本香堂の仕事だけで付き合ってきた衣裳さん 小道具さん 音響さんにも仕事を回せて色々と便利を図ってもらえる
ラビットにしても年二本のレギュラーの仕事があれば安泰だ
こののちあちこちで「人が演じるお化け屋敷」が多く行われるがこれがその先鞭だと思う

公演記録は以下の通り
 平成15年 化け猫騒動 「呪われた有馬屋敷」
 平成16年 横溝正史「八つ墓村」
 平成17年 横溝正史 「犬神家の一族」
 平成18年 横溝正史 「獄門島」
 

さて公園内には色々と遊び道具があり 中でもジェットコースターは充実しており 私は苦手だったので乗ったことはなかったが(もっぱら新しく出来た流れるプールでゆったり遊んでいた)「風神雷神」だとか「オロチ」だとか若い役者は休憩時間に乗りに行っていた

さて平成19年次回作の打ち合わせが始まった頃(またまた横溝ものだった) 
ゴールデンウイークのど真ん中の5月5日風神雷神Ⅱの事故が起った 
当時の新聞記事には次のような記事が載った

大阪府吹田市の遊園地「エキスポランド」でジェットコースターが脱線し20人が死傷した事故で2両目に乗っていて死亡したO(記事は本名)さん(19)が事故車両に乗り込む際後ろに並んでいた家族ずれの客に座席を譲っていたことが府警の調べで分かった 事故直前順番待ちしていたOさんら同僚8人のグループが親子三人を先頭車両に乗せてあげようと気を配った結果だった 調べによるとOさんは事故の5日朝から滋賀県東近江市の同僚5人とレンタカーを借りてエキスポランドを訪れていた 事故を起こした「風神雷神Ⅱ」は人気アトラクションだったため 事故前の正午ごろは順番待ちの行列ができていた
午後0時45分頃 Oさんと同僚一人が風神に乗り込む直前 後ろに父親と娘二人の親子連れが並んでいるのに気付いた 一両は四人乗り 0さんら二人が乗ってしまうと親子がバラバラになってしまうと思い 三人に座席を譲り 自分たちは次の車両に乗ることにした
Oさんが2両目の左側に乗り込んで出発 約150メートル走行した地点でOさんの席の下にある2両目前部の車軸の先端が折れて 左右のレールを傷つけながら急降下や旋回を続け約680メートルの地点で車軸で固定されていた車軸のユニットが脱落した
さらに2両目の車両が左に大きく傾いたまま約35メートル進み 点検用通路の手すりに接触 Oさんは頭を挟まれて即死 席を譲ってから約3分後の惨劇だった

目撃者によると
首が胴体から離れ眼球が垂れ下がって揺れており その唇はダランと下がったままだったという 
お化け屋敷顔負けの悲惨さで目撃した人たちも何人か倒れた

この事故のニュースが出て悲劇のヒロインOの写真をみて世の人たちはビックリする 
僕もこの写真を見てこれは事故にあったこの子が悪いと思った 写真は安田大サーカスのHIROそっくりの大女だったからである
(最近の事故の記事でもこの写真は見ることが出来る)
これにより機械の制限体重が問題となり会社は乗車拒否をすればよかっのにとか意見が出た 
そんな風潮が遺族をかたくなにして会社側のお悔やみを最後まで拒んで補償問題はもつれにもつれた
(最近のネット記事を読むとOさんはダイエットに成功して事故時点ではスマートだったという)

この事故のあとエキスポランドはお化け屋敷を中止して 8月プールと風神雷神以外の娯楽施設で再開したが彼女のうらみからか次々と遊戯施設の事故が相次ぎ客足も伸びず再び休館 2008年破産した 
現在は三井不動産が跡地を利用して商業施設を中心として水族館など色々な施設を併設したEXPOCITYとして新たに開業している

たった四年間であったが僕にとって楽しく仕事が出来た四つの夏の時間であった