天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

「かくかくしかじかの世の中に変えて行くため、ああしてそうしてこうすることが必要」教義で私は劇場排除

2010-04-24 18:31:32 | 日記
今日の日記も、先日逝去された井上ひさしさんのエッセイ集1『パロディ志願:1979年中央公論社刊』に収録されている『喜劇的猥褻論2:「新劇」1973年9月号』で書かれた、私にとってとても感慨深い執筆文のことです。私はその記述の一部を、以下に引用し掲載します。
『彼等が他人に迷惑や損害を与えることのないストリップをなぜ取締ろうとするのか。・・誰もが楽しくやっているへ刑法第百七十五条を振りかざして侵入してくる彼等は、阿呆で愚かで頓馬であるはずである。・・いつの間にか事情が逆転し、ストリッパーや観客の私たちが阿呆で愚かで頓馬になってしまうのか。このあたりについて考えてみなくはならぬ。・・彼等はストリッパーの心やさしき性器開陳を、人倫の道にそむく根源的な悪、犯罪の中の犯罪と見做しているらしいのだ。ではなぜ彼等にとって、性器開陳が犯罪の中の犯罪なのだろうか。それはおそらく性が想像力にかかわってくる問題だからだろう。・・
「今の世の中はこれこれこういうことでまことにいかん。そこでかくかくしかじかの世の中になってほしいものだ」という想像力だったらどうなるか。また更に「かくかくしかじかの世の中に変えて行くためには、ああしてそうしてこうすることが必要だ」という想像力だったらどうか。彼等は「やばい」と思うに相違ない。そこで彼等はあらうる想像力を圧しつぶそうとするのだろう。性に関する想像力、あるいは妄想力も、彼等の嫌いなもののうちのひとつなのである。
確かに性に関する想像力などとるに足らぬしろものであるが、それが成長すれば天下を覆す念力ともなり得ることを、彼等は知っているのである。やがては天下を覆すだけの念力に成長するはずの卵を、彼等が怖れるのは理の当然だ。』
このエッセイで井上ひさしさんが言及している「彼等」とは、司法的な官憲組織のことです。でも、個人的な応援に関して独善的な教義を信奉している常連客の親衛隊に、観劇していた劇場から理不尽な排除を受けた私には、このエッセイの「彼等」には悪しき親衛隊も含まれます。(注:これは、あくまでも私見です)
井上ひさしさんが活躍されていた頃の劇場社会にはまったく想像もできないような悪行が、現在の劇場では起きていたのです。さらに、それが起きた劇場には想像力はあっても、自浄力はまったくないのです。
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