天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

池波正太郎著『剣客商売・徳どん、逃げろ』の「博打場で他人の詮索は御法度」不文律はある種人間に通用せず

2010-10-28 22:06:04 | 日記
今日の日記は、耳かき店女性ら殺害事件の元会社員林貢二被告(42)が偽名で利用した耳かき店と私が昔足繁く通った実演某劇場の相関性に関する私的考察です。
私にはこの現在の日記ブログを開始する前にも、投稿していたブログ日記がありました。でも、そのブログ日記は、某劇場独善的応援教義を信奉する親衛隊らによって、理不尽にも閉鎖を余儀なくされました。しかし、その投稿文を現在でも保存している劇場客の方がいます。その某掲示板より、2009年5月29日付私の日記を、以下に引用掲載します。
『・・男の道楽での不文律、「御法度」は現代でも生きている・・私が通っていた趣味の世界は、一般社会の倫理観に照らせば、あまり褒められた嗜好ではないです。江戸時代庶民の三大道楽「飲む・打つ・買う」の残った現代版の一種とも考えられます。江戸時代のその趣味の内、「打つ・買う」二つの世界で、嗜好客や相方の女性の生国、育ち、生業などをあれこれ詮索することは、不文律の「御法度」でした。「買う」の世界の内、幕府公認の遊郭「吉原」では、特殊な言葉「廓言葉」まで創り出して、遊女の生国や育ちが判らないように自己防衛していました。「打つ」の世界では、私の大好きな作家の一人池波正太郎さんの「剣客商売」の一編「徳どん、逃げろ」で博打場に出入りしていた二人の男をこう書いています。以下に引用します。
<傘屋の徳次郎は、千駄ヶ谷にある松平肥前守・下屋敷内の中間部屋で、博打をやっていた。・・「もし・・」とそこへ、後から入って来た中年の男が徳次郎に声をかけた。・・無頼の者ともおもえぬし、そうかといって、堅気の商売をしているようにも見えぬ。博打場での他人の詮索は、いわゆる{御法度}なのだ。>
このような歴然とした重い歴史的事実の常識など、現在のこの世界の悪行客にはまったく通用しないことが、画策された今回の卑劣な追放劇で、私は痛感しました。しかし、その悪行客にまったく予防処置をせず、逆に善人だと信用して自己防衛などしない所業を、私は後悔はしていません。池波正太郎さんも、上記の作品最後にそれに関して、含蓄のある文章を書き残されています。
<「それにしても、土崎の八郎吾は、徳次郎をなんとおもったのでございましょうかね。あれほどの男が、よくもまあ、徳次郎を、あれだけに信用をしたものだと・・・いまさらに私は、腑に落ちないのでございますよ。」微笑を浮かべた秋山小兵衛が、煙草のけむりを吐き出して、「人間という生きものは、だれでも、勘違いをするのだよ。ごらんな。太閤・豊臣秀吉や、織田信長ほどの英雄でさえ、勘違いをしているではないか。なればこそ、あんな死にざまをすることになった。わしだってお前、若い女房なぞをこしらえたのはよいが、それも勘違いかも知れぬよ。>私も秋山小兵衛のような境地に早くなりたいです。』
添付した写真は、池波正太郎著『剣客商売・7巻・隠れ簑』(新潮文庫版)の表紙です。
林被告にとって、足繁く通った耳かき店は、私が日記で言及した江戸時代庶民の三大道楽「飲む・打つ・買う」の残った現代版の一種、とても癒される遊興の場だったのでしょう。でも、彼は私の真摯な思い『男の道楽での不文律、「御法度」は現代でも生きている』などまったく死語の世界になっていると看做しているから、その遊興の場では躊躇なく偽名を使用し、他人に判らないように自己防衛したのです。
私が書いた『歴然とした重い歴史的事実の常識』は、某劇場応援悪行客だけでなく耳かきサービスを受けた女性を殺害した林被告にもまったく通用しなかったのです。今、とてもやるせない思いを私は抱いています。『男の道楽での不文律、「御法度」は、欲望のまま生きている現代のある種人間にはまったく通用せず』と私は言い換えなくてはならないからです。そして、このある種人間たちは、社会的にとても危ない嗜好の持ち主たちです。
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