田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道低山紀行 60 ホロホロ山(1322.3m)

2016-06-20 16:30:03 | 北海道低山紀行 & Other
 徳舜瞥山々頂からは至近にあるホロホロ山だが、徳舜瞥山とは違い山頂近くの急登で私の体力は一気に奪われてしまった。わずか30分強の登りなのだが、その急登のために私はMAXのパワーを消費しなければならなかったのだった…。

           
          ※ 手前のガレ場を下り、尾根コースを経由して向こうに見えるピークを目ざします。

 徳舜瞥山頂からホロホロ山へは、前日の最後の写真のように(今回も掲載した)尾根コースを辿って行くコースである。まずは、急な岩場を下って行く。ホロホロ山の方がやや標高が高いのだから、登り返しのことを考えるとこの下りは辛い。

          
          ※ このようなガレ場を下りました。ということは帰りにはここを上らねばなりません。

 尾根コースとはいっても、森林限界ではないため、両脇は低い灌木に覆われたコースだった。そのコース脇には、徳舜瞥山を登るときには見られなかった高山植物が次々と見ることができ、目を楽しませてくれた。ハクサンチドリ、ミヤマキンバイ、シラネアオイ、等々…。

          
          ※ 尾根コースで見た花々です。ハクサンチドリの若い花?

          
          ※ こちらはミヤマキンバイでは?と思うのですが…。

          
          ※ シラネアオイは開ききって盛りを過ぎたようでした。

          
          ※ こちらはまるで分からない。

 急激な下りが終わり、しばらくは平坦に近い尾根コースが続いたが、やがてホロホロ山々頂に向っての激しい上りが待っていた。
 まるで頭上に上って行くような急登箇所が二ヵ所待っていた。私の後ろを上っていた若い女性が荒い息をしながら私を追い抜いて行った。
 その急登を上るのに、時間的には10分も要しなかったと思うのだが、私はすっかり消耗しきってホロホロ山々頂に立った。
 山頂は晴れていたのだが、遠くは雲がかかり遠望は十分とはいかなかった。

                

          ※ 急登の写真2枚です。上の写真は滑って難儀した箇所です。
                

          
          ※ 逞しき女性の荒い息遣いに、私は優しく(?)道を譲ってあげました。

          
          ※ 消耗しきって到達したホロホロ山々頂です。

          
          ※ 山頂からの景色は、雲に隠されているところもありイマイチでした。

 私はホロホロ山々頂で約15分休憩し、再び徳舜瞥山へ向かった。消耗しきった私には徳舜瞥山に向かう急登もかなり辛い思いをしながら徳舜瞥山に還ったのだった。
 徳舜瞥山では、今回珍しくガスストーブを持参したので、お湯を作りカップ麺とコーヒーを楽しみたっぷりと40分の休憩を取り、下山に備えたのだった。

          
          ※ ホロホロ山々頂から徳舜瞥山を望んだところです。

          
   ※ ホロホロ山から徳舜瞥山に還ってみると、山頂はご覧のとおり大賑わい。これでも写真には半分か写っていません。

          
※ お気付きの方もいらっしゃると思うが、私の山行記録のタイトルを「札幌近郊低山紀行」から「北海道低山紀行」に改題した。私の山の記録が札幌近郊だけにとどまらなくなってきたことがその理由である。しかし「低山」という言葉は残した。私が「北海道山紀行」と呼称するのはおこがましい。確かに中には羊蹄山や大雪山系の山もあるが、それは特別な場合でありOtherに括ることとし、やはり私はこれからも低山を中心に山を楽しんでいきたいという意志をタイトルに込めたいと思ったことをご理解ください。

【ホロホロ山 登山データ】
標 高  1322.3m
駐車場  大きな駐車場有り(20台くらい? それでも今日は足りなく路上駐車が多かった)※徳舜瞥山登山口
行 程  ※ グランドシニアの足とお考えください。
     徳舜瞥山々頂→(33分)→ホロホロ山山頂(15分休み)→(38分)→徳舜瞥山山頂
時 間  上り(33分) 下り(38分)
天 候  快晴、無風
登山日  ‘16/06/19

北海道低山紀行 59 徳舜瞥山(1309m)

2016-06-19 21:42:52 | 北海道低山紀行 & Other
 三角錐のきれいな形の山だが、登山道は急峻なところがなく徐々に、徐々に高度を増していく山だった。ペースさえ間違えねば、中級者には手ごろな山なのかもしれない。事実、今日は婦人を中心にたくさんの登山客で賑わっていた。 

 蝦夷梅雨が続くこの頃だが、久しぶりに「晴れ」の予報が出ていたので、コンサドーレ戦観戦の予定を変え、伊達市大滝まで車を走らせた。朝5時前に自宅を出たのだが、私のかん違いもあり、登山口に着くのに手間取り、7時10分の登山開始となった。
 
 ガイドブックによると、登山口はすでに標高700mで、5合目となっている。裾野歩きがカットされているのも、私のような者には嬉しい。
 駐車場(5合目)からは目ざす徳舜瞥山の山頂を望むことができた。

          
          ※ 正面に見える三角錐の山が目ざす徳舜瞥山の山頂です。

 登山届に記帳し、いよいよ登山開始である。天候は晴れ、気持ちの良い登山ができそうだ。登りはじめは鉄砲水で荒れたという石原を往く。やがて本来の細い登山道となる。6合目までは比較的緩やかな上りが続いた。
 6合目を過ぎると、本格的な登山の開始である。岩が砕けて折り重なったところ、木の根が階段状になっているところ、などを通りながら徐々に、徐々に高度を上げていく。

          
   ※ 登山口にある登山届の記帳箱です。徳舜瞥山の登山口なのに「ホロホロ山自然休養林」とは、これいかに?

          
          ※ 登り始めはご覧のような石原でした。

          
          ※ このような表示が励みとなりました。

 前日まで降り続いた雨の後遺症が気になったが、確かにところどころに水たまりができていたり、泥状になっていたりするところもあったが、そうしたところを避けながらの登山となった。
 登山道の脇にはほとんど高山植物は顔を見せなかった。最盛期は過ぎたということなのかもしれない。そうした中、唯一白い小さな花をつけた植物があったが、名前は特定できない。

          
          ※ 長く降り続いた蝦夷梅雨の影響があちこちで見られました。

          
          ※ ちょっと調べてみたのですが、自信を持って言うことができません。

 この山は何合目という表示がしっかりと表示されているのが励みになったが、振り返ってみると、私の足で合目間をだいたい23~4分程度費やしていた。その中で6~7合目間だけが34分を要しているのは、岩場が多く注意深く登ったことによるもののようだ。

               
          ※ 6~7合目間はご覧のような岩場の上りとなったため時間を要しました。

 登山道は登りはじめから山頂に至るまで、ずーっと林間コースである。今日のように晴れている時には直射日光に当たらずに登ることができるので都合が良い。ただし、眺望はまったく効かない。それでも8合目を過ぎたあたりから林間越しに下界を見渡すことができ、励みとなった。

          
          ※ 8合目を過ぎると、林間から眼下の景色が望めるようになりました。

 9合目を過ぎ、林がダケカンバからハイマツに変わり、山頂が望めるようになってから、もうひと頑張りすると頂上だった。
 特別急峻な上りもなく、マイペースを守ったこともあり、全身汗まみれにはなったが、苦しさよりも楽しさが優った登山だった。

          
          ※ 山頂が近くなり、木も風の影響を受けて真っ直ぐに成長できないようです。

          
          ※ 山頂近く、眺望が大きく広がりました。

 頂上にはこれまで見た中でも最も立派な標識が立っていた。
 また、高山植物は終わったかに思えていたが、山頂にはミヤマアズマギクが満開で、花畑のように広がっていた。
 山頂からは次に目ざすホロホロ山の全容も見ることができた。

          
          ※ 見事な、見事な山頂標識です。この時はまだ人が少なかったのですが…。

          
          ※ ご覧のミヤマアズマギクが山頂一面に咲き誇っていました。

          
          ※ 徳舜瞥山の後に登ったホロホロ山の山頂が見えています。

【徳舜瞥山 登山データ】
標 高  1309m
駐車場  大きな駐車場有り(20台くらい? それでも今日は足りなく路上駐車が多かった)
行 程  ※ グランドシニアの足とお考えください。
     登山口(5合目)→(75分)→8合目→(55分)→徳舜瞥山山頂→(30分)8合目→(50分)→登山口
時 間  上り(2時間10分) 下り(1時間20分)
天 候  快晴、無風
登山日  ‘16/06/19

モーツァルト & ベートヴェン

2016-06-18 18:37:54 | ステージ & エンターテイメント
 私のブログに似つかわしくないタイトルであるが、両者を聴き比べることができる札幌交響楽団の「森の響(うた)フレンドコンサート」を聴く機会に恵まれた。 

               

 本日(6月18日)午後、キタラ(札幌コンサートホール)で札響名曲シリーズと銘打って「森の響(うた)フレンドコンサート」があり、聴く機会を得た。
 聴く機会を得た、という言い方には含みがある。実は今回も私自身がチケットを購入したのではない。知人のH氏がチケットを購入したにも関わらず、その後用件が発生し、チケットを譲り受けたということなのだ。
 私の場合、クラシック系のコンサートを聴く場合は、ほとんどがこうしたケースである。私の中ではまだまだクラシックは敷居が高いということなのだ。

 さて、今日のコンサートには「ウィーン ~ 華麗なるヴァイオリンと運命」というタイトルが付けられていた。というのも、若き俊英として知られる(私はもちろん知らないが)ドイツのヴァイオリニストのフォルクハルト・シュトイデ氏をゲストのコンサートマスターとして迎えてのコンサートだったからだ。

 プログラムは、次のとおりである。
 ◇モーツァルト/セレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525
 ◇モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216
 ◇ベートヴェン/交響曲第5番ハ短調op.67「運命」

 この札響の名曲シリーズというのが、どのようなコンセプトで行われているのか、私は理解していないが、本日の場合いっさい指揮者は登場せず、コンマスのシュトイデ氏のリードのもとに演奏は進んだ。
 今回のコンサートの演目は、クラシックに疎い私にでも耳慣れた曲が二つも演奏され(一曲目と三曲目)、その意味ではとても楽しむことができたコンサートだった。
 
 そうした中で、モーツァルトとベートヴェンとの違いを私なりに感ずることができた。それがはたして正解なのかどうかは知らない。
 しかし、私なりに感じたのは、モーツァルトの“繊細”に対する、ベートヴェンの“重厚”という対比である。そこには交響曲と協奏曲という違いがあるのかもしれないが、二人の曲調の違いのようなものを感じたのだが、はたしてそれは彼らの全ての曲に対して言えるものかどうかは私は知らない。
 ただ、モーツァルトが日本においては非常に人気が高いということもそうしたところに因があるように思える。私もまたモーツアルトの方がどちらかというと好みである。

               

 もう一つ、今コンサートの印象はやはりフォルクハルト・シュトイデ氏のコンサートだったという印象である。上背があり、演奏のスタイルも派手な彼は圧倒的な存在感を誇っていた。もちろんそこには技量的な裏付けがあってこそ、なのであるが…。

 三曲とも、私は非常に興味深く聴くことができたが、管楽器を排し、弦楽器のみで演奏した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が特に印象的に私の耳に残った。

 なお、アンコールで演奏された曲も私にとって耳慣れたモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」だったのが嬉しかった。

北海道の海を探る

2016-06-17 18:31:11 | 講演・講義・フォーラム等
 “探る”とは正しい言い方ではないかもしれない。正しくは“調査”と称する方がイメージ的には正しい。北海道の水産試験場が所有する三隻の調査船で北海道海域全体の調査を実施して解明したことについて講義を受けた。

          
          ※ 道の水産試験場が保有する試験調査船の一つ「北辰丸」です。

 今日(6月17日)のお昼、道立総合研究機構(道総研)が主催する「ランチタイムセミナー『おひるの科学』」が道庁1階ロビーで開催され受講した。
 今回は道総研の水産研究本部が担当して「北海道の海を調査しています!」と題して、研究主幹の奥村裕弥氏が講義した。

 北海道の海を調査するために、道内の水産試験場は現在三隻の試験調査船を保有しているという。稚内水産試験場に「北洋丸」、釧路水産試験場に「北辰丸」、函館水産試験場に「金星丸」がそれぞれ配置されているとのことだ。
 
 それらの試験調査船がそれぞれ海域を分担し、およそ2ヶ月に1度の割り合いで調査を継続している。
 その調査の内容は大きく二つに分けられるが、一つは「海洋観測」である。これは中長期的な海況の変化を観測したり、深さ方向の水温やプランクトンの状況を観測したりすることだという。
 もう一つの調査が「魚種調査」である。これは魚の資源を管理したり、魚の生態を調べたりすることだそうだ。

          
          ※ 講義をする研究主幹の奥村裕弥氏です。

 「海洋観測」の説明の中で、新しい知見を得ることができた。それは南から北上する対馬暖流が、津軽海峡のところで一部が分かれて津軽海峡内に流れ込むのを「津軽暖流」と称するそうだ。また、さらに北上して宗谷海峡からオホーツク海に流れ込む海流を「宗谷暖流」と称する、ということを初めて知った。
 さらに対馬暖流には次のような特徴があることもはじめて知ることができた。それは(1)流れは海底を感じて、地形に沿って流れる。(2)岸に近いところでは、岸に捕まってしまう。(3)夏に流れが強く、冬は弱い。その割合は2対1ほどの違いがある。

 今回の講義で私が理解できたのは、表層面においては対馬暖流やオホーツク海の流氷の影響を受けて、塩分濃度や水温に季節の違いが出てきたり、温暖化の影響も見られるとのことだった。
 一方、水深が250mを超える海面下では塩分も水温も一年を通して安定しているとのことだった。

               
               ※ 試験調査船が採集したプランクトンのオキアミです。

 さらに私が注目したのは、近年の調査で釧路沖に暖水塊が常駐しているとの話に興味を覚えた。というのも、釧路港といえば往時は永らく水揚げ全国一を誇っていたが、最近の凋落ぶりは著しい。その原因はイワシの資源量が激減したことによるのだが、その原因の一つが暖水塊にあるのではないか、と私は思ったのだが…。

 理系ものに弱い私であるが、道総研の「おひるの科学」は講義する方が噛み砕いて説明してくれるからか、私にも理解できるところが嬉しい。これからも定期的に開催されるようなので、できるかぎり足を運びたいと思っている。

ネタがない!

2016-06-16 23:53:18 | その他
 ブログに投稿するネタがない。
 実は、昨日、一昨日と公に関する仕事に一日中忙殺されてしまったのだ。そのためにブログに投稿するようなネタを仕入れることができなかった。
 その公に関することを一度は投稿したのだが、内容的にクレームがつくのでは?との思いから削除したのだ。(あるいは何人かの方は目にされたかもしれない)
 これからは、時にはこうした日が出てくるのかなぁ…と思うと、連日投稿を心がけている私としては若干憂鬱でもある。

歴史は夜創られる

2016-06-15 22:08:10 | 「めだかの学校」関連

 私が現職時代に良く口にしていた言葉である。今回、「めだかの学校」の「給食会」に参加していて、その言葉を思い出していた私だった…。 

          


 昨日レポした「映画の中の北海道~昭和編」の後、いつものように「給食会」が行われた。
 「めだかの学校」では、月に2回の学習会を開催しているが、そのうちの月の初めの学習会の後には「給食会」を行うことが恒例となっている。
 「めだかの学校」に参加し始めた当初、「給食会に参加しませんか?」と誘われた時は、学校の給食会だから、本当に食事を楽しむ会なのかな?と思いながら参加した。しかし、そこは大人の会である。案に相違して、飲んで、食べて、おしゃべりをする楽しい飲み会だったのだ。
 以来、律儀な(?)私は特別の用事がない限り、毎回のように参加するようになった。

 さて、タイトルの「歴史は夜創られる」ということだが、時の権力者が寝物語に秘密を漏らしたことによって、国や領土の命運が分かれたなどいう艶っぽい話ではない。
 現職時代に私はしばしば次のような経験をすることがあった。
 昼間の正式な会議などでは、なかなか名案が出なかったり、意見が衝突して結論が出せなかったりするケースがよくあった。
 ところが、酒を介した会合において、ひょっとしたことで素晴らしいアイデアが生れたり、建前で反発していた者同士が本音では意気投合したりするケースがあった。
 もちろんその席で正式に課題が解決するということではなく、そうした席を経たことで正式な会議においても、そこで語られたことがベースとなって課題が解決したことがしばしばあり、私は密かに「歴史は夜創られる」などとうそぶいていたものである。

 職務に直接関わらない、職場の文化を形成していくのは、まぎれもなくこうした飲み会である場合が多いと感じている。私の経験では、職場で駅伝大会に出場したり、十勝のママチャリロードレースに参加したりしたのも、全て飲み会での発言がキッカケとなったものだった。

 「めだかの学校」でも、お酒を介することによって正式な会合では遠慮していたことも、心のバリアーが低くなったことで様々なアイデアが提起され、それが「めだかの学校」の学習会の企画として取り上げられたケースが何度もあったと聞いた。
 先日の給食会においても、思い切って自らの考えを発言されている方がいらっしゃった。聞いている幹部の方がそれをどう受け止めたかは知る由もないが、あるいは幹部氏の考えに影響を与えるひと言であったとも考えられる。
 私はまだ新入りと心得ていて、そうした類いの発言は慎んでいるつもりだが、あるいは自覚しないうちに自らの考えを発しているかもしれない。

 酒にまつわることわざの中に「酒は詩を釣る針」という言葉があった。その意味するところは「酒を飲むことによってとてもリラックスができて感性が豊かになり、詩歌も生まれる、引いてはいい事を思いつくということ」
 適度な酒を楽しみ、良いアイデアを交歓する楽しい場として、これからも「給食会」に参加し続けたいと思っている。


映画 163 あゝ声なき友

2016-06-14 20:49:46 | 映画観賞・感想

 あの渥美清が原作の映画化を熱望し、自らプロダクションを起ち上げ制作した映画である。その内容は彼の持ち味であるコメディではなく、戦争の風化を静かに告発するシリアスな映画である。

               

 6月13日(月)は、「めだかの学校」の「映画の中の北海道~昭和編」の観賞会だった。
今回は、渥美清主演の「あゝ声なき友」が取り上げられた。
 映画は、有馬頼義著「遺書配達人」を読んだ渥美清が映画化を熱望し、自ら会社を起ち上げ、戦後27年経った1972年に公開されたものである。映画には、松竹・渥美清プロダクション提携作品とクレジットが記されている。

 映画のあらすじは、ウィキペディア出ていたものを拝借すると、
「終戦後、病気入院していたため、部隊で一人生き残った西山民次は、戦友12人の遺書を抱き日本へ帰国した。家族全員原爆で死亡し、身寄りの無くなった西山は、なんとか食い繋ぎながら、12通の遺書を配達するべく旅に出る。そして、行く先々で西山が見たものは、生々しい戦争の傷跡だった。戦争で狂わせられた各人各様の人生とさまざまな心模様を、社会派の巨匠今井正が描き出している。」
となっている。

          

 映画では主人公の西山(渥美清)が遺族に遺書を届ける様子が描かれるが、そこには遺された人たちのさまざまな戦後が描かれている。そこには戦争がもたらした悲劇、戦争によって狂わされた人生がさまざまに描かれている。
・精神が崩壊した奥さん
・A級戦犯として捕まっていた元大臣
・芸者
・死刑になった青年…

 12人全てを描いたわけではないが、一つ一つのエピソードが「もし戦争がなければ…」そうした悲劇は起こるはずがなかった。と静かに訴えている映画だった。
 映画は西山が訪ねる戦友の遺族に会い遺書を渡すという性質上、オムニバスの形式を取らざるを得なく、ストーリーとしての盛り上がりには欠けるが、最後に戦死したと思われていた戦友・百瀬(北村和夫)が現れる。彼は大西がやっていることを罵り、「忘れてしまえ、その方がずっと楽だ……遺書なんか焼いてしまえ!」と怒鳴りつけ、テーブルに突っ伏す。その百瀬こそが、戦争を忘れられずに苦しんでいる姿がそこにあったような気がしてならない。

               

 戦争というものが、一人ひとりの人生をどれほど無残にも破壊するものであるかを、改めて教えられた思いである。
 「戦争を知らない子どもたち」第一世代である私たちは幸いにもこれまで戦争を体験せずに生きてくることができた。
 きな臭い匂いも漂い始めたと云われる昨今だが、人間の叡智を集めて戦争という愚かな行為だけはなんとしても回避し、平和な時代が続いてほしいものである。


私は縄文人になった?

2016-06-13 19:10:17 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 一日中粘土をこね、紐を作ってそれを重ね、私はひたすら土器を作ることに没頭した。その器に縄目の模様を入れ…。私は一日縄文人になった? のだった…。 

 6月12日(日)、北海道博物館が主催する「縄文土器をつくる」というちゃれんがワークショップ(誤字ではない。道博物館の愛称を建物の壁から連想して「ちゃれんが」と称するらしい)に参加した。
 道民カレッジ連携講座ということで、道民カレッジのポイントアップという目的もあったのだが、はるか昔の古人(いにしえびと)の気分になってみるのも一興かな?との思いもあり、参加してみることにした。

          
          ※ ワークショップの様子を2階から俯瞰した様子です。

 参加者は親子連れも含めて、年代的には多岐にわたり、50名近くが参加する盛況の講座(ワークショップ)だった。
 講座は、本日の工程である縄文土器を成型するまでの過程について簡単にレクチャーを受けた後、早速実技に入った。
 本来は、〔粘土とり〕、〔粘土のねかせ・乾燥〕、〔粘土くだき〕、〔粘土こね〕、〔粘土ねかせ〕という工程を経なくてはならないのだが、そのところの作業は主催者がすでに行ってくれていた。
 私たち参加者は、そこまで終えていた粘土を改めてこねることからワークショップは始まった。

          
          ※ ワークショップはまず右代学芸員がデモンストレーションをして。それを模倣する形で進められました。

 配られた粘土をこねること約20分、ひたすらこねることで粘土全体がしっとりとしてきて、人の耳たぶのような柔らかさになったところで〔こね〕の工程が終了した。これは粘土の中の空気を抜く作業ということだった。

          
          ※ 右代学芸員が輪積み法で、器の高さを上げていくデモンストレーションをしているところです。

 続いて〔形づくり〕に入った。縄文土器の形づくりには普通、(1)手づくり法、(2)巻き上げ法、(3)輪積み法、と三つの方法があるとのことだが、今回は初心者でも失敗しない(3)の輪積み法が採用された。
 輪積み法は、粘土をひも状にして輪を作り、それを積み上げていく方法である。一段ずつ積み上げ、それを手でならして粘土と粘土を接合させていくことを繰り返し、高くしていくのである。

 私は何を作ろうかな?と思ったが、高くするには技術もいるし、大きなものを作成しても完成した器を持ち帰ったときに邪魔者扱いされかねないので、小物を作ることにした。
 まず取り組んだのが、口を少し広げた鉢状のものである。
 この作業が楽しかった。ひたすら粘土と格闘し、少しでも形の良いものをと邪念を排し集中しているとあっという間に時間が経った。私はすっかり縄文人になりきっていたのである。
 他の方の出来を意識する間もなかったが、一つ完成して他の方を見ると、私よりは大きな器に挑戦している人が目立った。
 時間もあり、粘土も余っていたので二つ目の器づくりに取り掛かった。
 今度は、器の口を絞った花瓶状の形に挑戦した。これも楽しく作ることができた。
 二つとも満足できるものではないが、美的センスのない私にとっては精いっぱいの出来といっていいだろう。

 続いては、この日の最終工程である〔文様つけ〕である。
 〔形づくり〕に精力を使い果たした私には、この工程にあまり意欲が湧かなかった。したがって、ありきたりの文様を付けて完成とした。

          
          
          ※ 粘土と苦闘の末、私が整形した二つの土器です。はたして上手く焼けるでしょうか?

          

 〔形づくり〕、〔文様つけ〕を終えた土器は、この後乾燥させ、2週間後に〔土器焼き〕を行うことになっている。これもまた楽しみである。

 粘土と格闘すること3時間、楽しい時間を過ごし、私はひと時縄文人になったのだった。


日本の古民家は地震に強い?

2016-06-12 22:08:05 | 講演・講義・フォーラム等
 一級建築士である講師の江崎氏は言う。日本の古代の建築法である木造建築は、実は地震に対する順応性が高い建築方法なのだと…。木造建築は、地震に対して耐震性が高いのではなく、免震性が高い建築方法だと強調された…。 

          
          ※ 典型的な古民家の風情を醸し出していた茅葺の「旧菊田家農家住宅」です。
          
 6月11日(土)午前、北海道開拓の村において「北海道開拓の村たてもの観察会」が開催された。
 北海道開拓の村には、北海道の開拓時代に建築された歴史的な52の建造物が移築保存されている。それらの建築物を何回かに分けて、専門家が詳しく解説してくれるという素晴らしい企画だったので参加してみることにした。

          
          ※ 観察会の最初に訪れた「旧近藤染舗」の店舗兼住宅です。

 講師は、一級建築士で北海道古民家再生協会の理事長を務める江崎幹夫氏だった。氏は「建物の構造面について説明します」ということで、この日は
 (1)1913年建築の旧近藤染舗
 (2)1919年建築の旧青山家漁家住宅
 (3)1882年建築の旧岩間家農家住宅
 (4)1893年建築の旧菊田家農家住宅
 (5)1897年建築の旧樋口家農家住宅
の五つの建築物を見て回り、解説を伺った。

          
          ※ 豪壮な造りの「旧青山家漁家住宅」です。出稼ぎの漁夫の部屋と親方の住居が一緒です。

                    
          ※ 旧青山家の屋根裏の梁ですが、これは西洋の工法を取り入れた梁の造りだそうです。

 五つの古民家を巡って歩いて、伝統工法(昭和25年以前に建てられた日本家屋の建て方を指すそうだ)に二つの大きな特徴があることに気付かされた。
 その一つが梁や柱の太さである。特に関谷家と樋口家の屋根裏には太い梁が幾重にも張り巡らされていた。これらは雪の重さに耐えられるとともに、家全体を上部から押さえつけ安定性を保つ働きがあるとの説明だった。
 二つ目の特徴は、いずれも建物ともに基礎に自然石が使われていたことだ。これを「石場建て」と称するそうだ。凹凸のある自然石に合せて、その上に立てる柱を加工することを「光付け」というらしいが、石の曲線に合せて加工する技はまさに職人芸である。

          
          ※ 最も伝統工法を見ることができた「旧岩間家農家住宅」です。

          
          ※ 住宅の基礎部分に自然石が置かれて「石場建て」の住宅です。 
          
     ※ 柱が石の中にめり込んでいるように見えますが、そうではなく石の湾曲に沿って柱を加工する「光付け」でできています。

          
          ※ 確かこのような太い梁が三重になっていたと記憶しています。

 その他には伝統工法には在来工法にはない特徴についていろいろと説明を受けた。そして講師の江崎氏は強調した。
日本の木造建築の代表的建造物である法隆寺が1400年経過した今も健在であること。地震多発国である日本において、倒壊せずに今なお健在であるということは驚異といえることだが、その大きな理由は上記2点の伝統工法による日本建築の特色が生かされたからだという。
 それは、地震に対して在来工法が耐震的な「鋼構造」を追求するのに対して、伝統工法は免震的な「柔構造」という違いにあるという。在来工法の場合は、地震の揺れを受け止め、その揺れを逸らすというようなイメージである。
 ただ、建築基準法が昭和25年に成立して以来、地震に対しては「鋼構造」を追求する流れとなり、大きな地震が起こる度にその基準は厳しさを増しているとのことだ。

          
          ※ こちらも旧岩間家と似た造りの「旧樋口家農家住宅」です。

          
          ※ こちらの住宅も「石場建て」がはっきりと見ることができました。

          
          ※ 梁り太さ、多さも旧岩間家同様でした。

 残念なことに伝統工法は今のところ建築基準法的には顧みられない工法とされているそうだが、それは伝統工法がなぜ地震に強いのかということについて科学的な解明がなされていないということがあるそうだ。
 科学がこれだけ発達した現代において、なぜ解明できないのか不思議な気もするが、何時の日かはそれが明らかになることもあるのでは、とも思われる。

 そのことが解明された暁には、先人の知恵を活かした建築基準法に改めるべきでは、と思うのだが、それは素人の浅はかな考えなのだろうか?

ウクライナにはまった男の話

2016-06-11 22:21:01 | 大学公開講座
 関西人のノリというのだろうか?ロシアとの関係で危機に瀕しているウクライナの現状が聞けるのでは、と思って参加した講演会だったが、あれよあれよという間にウクライナ政治の中枢と付き合うことになった大学研究者の話を聞いた。 

               

 6月10日(金)夕刻、北大スラブ・ユーラシア研究センターが主催する「北海道スラブ研究会」の講演会があった。テーマは「体験的ウクライナ論:人々との交流から見る政治・社会の変化」と題して、神戸学院大学経済学部准教授の岡部芳彦氏が講演した。
 スラブ&ユーラシアの現状について多角的に紹介してくれる北大スラブ研の講演会である。私は危機に瀕するウクライナの現状を少しでも知る機会になるのでは、と思い受講を決めた。

 ところが講演会は終始笑いに包まれたものになった。というのも、一つは関西人の常に笑いを取ろうとする話し方にあった。というようにステレオタイプに見るべきではないのかもしれないが、実際に氏の話し方には笑わずにいられなかった。
 もう一つの理由も、やはり関西人のノリといおうか、はたまた岡部氏のキャラクターがそうさせるのか、あれよあれよという間にウクライナ中枢と付き合うことになった、その経緯が笑いを誘ったのだ。

          
          ※ ウクライナの民族衣装ヴィシュバンカを身に纏い講演する岡部氏です。

 岡部氏の専門は「イギリス検認遺産目録研究」という、イギリスの社会経済史を研究することが専門だということだ。
 しかし、修学時代にロシア語を学んだことがキッカケとなり、隣国ウクライナに興味を抱いたということだ。
 そして氏がウクライナの中枢に近づく大きな契機となったのが、「ウクライナ登録コサック軍団」に入団したことのようだ。この登録コサック軍団というのが、ウクライナ国内では相当の信用と権威を氏に与えたようだ。氏は軍団において少将、中将、大将と瞬く間に昇進し、現在は上級大将の任にあるという。ウクライナにおける氏は軍隊服に身を包み、軍団を閲兵している写真の提示もあった。
 聞いていた私には、こうして軍団に入団するということが、いわゆる関西人のノリなのではと思うのだが…。以前に聴いた大阪の某大学の講師はアフリカの集落の酋長に任命されたという話も聞いたことがある。

              
              
 コサック軍団に入団したことにより、氏はウクライナ中枢に近づくことに繋がったようだ。ウクライナはロシアとの関係もあり、政治的な状況はきわめて流動的なのだが、氏は時の政権とも上手く付き合ってきたようである。
 経済的基盤の弱いウクライナは、日本の経済力に頼ろうとする傾向があり、氏に仲介を依頼することもあるそうだ。今年4月にはウクライナのポロシェンコ大統領以下10数名の政府首脳が来日した際も、氏がその交歓会の一部をお手伝いしたということだ。
 そうした政府中枢と接する中で、氏はウクライナが国としてまだまだ未成熟であることを感ずるという。

 ウクライナにおける岡部氏は、経済学者、歴史家、活動家の三つの顔をもっているとのことだが、三番目の顔が突出しているのではないだろうか?氏は話の中で明らかにはしなかったが、これからも日本とウクライナの橋渡し的役割を楽しみながら(?)続けていこうとしているように私には思えた。

           
           ※ ウクライナ首脳が来日した際の晩餐交流会の際に岡部氏が手作りしたネームプレートだそうです。

 受講前の私は、ウクライナの社会的、文化的側面のウクライナの現状を知りたいと思って講演会に臨んだ。期待とは反したものではあったが、それなりに興味をもって話を伺うことができた。

 なお、文中ウクライナの言語がロシア語であるかのように誤解される向きもあるかと思われるが、ロシア語がウクライナ国内で通ずるということで、ウクライナ国内ではウクライナ語が話されているそうです。