小笠原の旅を終えて1週間が過ぎた。まだまだ旅を語りたいと思うが、そろそろ潮時かとも思う。今回の旅でまだ語っていなかった印象的だった二つのことに触れてみたい。
ザトウクジラのテールスラップ
今回の小笠原の旅の最後は、ホエールウォッチングのツアーに参加したが、とても興奮したホエールウォッチングだった。
この時期(11月~5月)、ザトウクジラは寒い北極圏から温かなこの海域に移動し、交尾・出産・子育てをするために彼らに遭遇するチャンスが多いらしい。
※ 定員23名のこのような小さなクルーズ船でのウォッチングでした。
私たちは定員23名の小さなクルーズ船で父島の周辺の海に乗り出した。
この日は波が荒く、船も揺れたが予め酔い薬を服用していたこともあり、船酔いなどまったくせずにクルージングを楽しめた。
※ 船長は船橋から四方八方に目を光らせクジラの出没を見張ってくれました。
※ スタッフは船首に陣取り、クジラの出没に目を光らせてくれました。。
クルージングでは、南島への上陸、イルカウオッチング、魚への給餌、などなどのプログラムが組まれてそれぞれ楽しめたが、クルーズ最大の目的はホエールウォッチングだった。
船橋には船長が、船首にはスタッフが張り付き、広い海をにらみクジラを探してくれた。
そうして私たちは2度、3度とクジラのブロウ(潮吹き)を確認することができた。その中でも親子のクジラが船の方に寄ってくるに際して、子クジラが何度も尻びれを海に叩きつけるテールスラップを見せてくれた。私は夢中になってカメラのシャッターを切ったのだが、一枚もまともな写真を撮ることができずガッカリした。
※ 写真のようにテールスラップを終えて水中に潜ってしまった写真を何枚写したことでしょう…。
ところが、その後もう一度比較的大きなザトウクジラが現れて、今度は慎重にシャッターを切ったところ見事に写真に収めることができた。
私は自らの目で確認できれば十分と考えていたのだが、写真にまで収めることができて大満足だった。
ただ、残念ながらクジラが大きく水面にジャンプし背中から水面に落ちるブリーチの場面は目撃することができなかった。
それでは感動のスリーショットを!
まだ残る戦いの跡
小笠原諸島は太平洋戦争において日本軍の重要な戦略拠点だった。
激戦地となった硫黄島では多くの兵士が犠牲となったが、父島には上陸はされなかったものの激しい空爆にさらされたという。私が歩いた中でも、日本軍が使用した建物や壕、食器や瓶などがいまだに散見された。
戦後70年が経った今も風雨にさらされながら残っているこうした遺品は、私たちに戦争の惨たらしさ、愚かさを伝えてくれているようだった…。
※ 旭山山中で見かけた兵士が隠れたであろう壕の跡です。
※ 壕の近くで見かけた食器などの遺品です。
※ 先の遺品からそう遠くないところで再び目にしました。
※ 初寝浦展望台の近くには朽ち果てた軍の司令部跡のような建物が2棟残っていました。
※ 同じく残っていたもう一棟の建物跡です。
※ その建物内部の様子です。
※ 中央山山頂近くに残っていた砲台跡とみられる残骸です。
最新の画像[もっと見る]
-
我が国のメディアは劣化しているのか? 3時間前
-
我が国のメディアは劣化しているのか? 3時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
-
さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7 24時間前
学研家には稀な行動派と貴兄を讃えている私でも、精力的にトレッキングをされたり、
各名所をくまなくバイクを活用されて巡ったことに脱帽です。
過ぎし2010年〈平成22年〉の2月下旬に、
小笠原諸島の『父島』でザトウクジラを観ることを最優先課題として、
私たち夫婦は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊の旅路をしました。
この後、世界自然遺産に登録された時、私はぼんやりとしながらも、
父島の旅路を思い馳せたりしました。
この当時、新聞に関しては、定期船の運航サイクルの関係で、
東京・竹芝桟橋を出航の直前に、最新数日分の同乗させるので、
私の見た限りでは父島の現地のスーパーは入港した分だけが並ばれていた。
或いは週刊誌も最新号がわずかにあり、確か本屋は見当たらなかった。
そしてガソリン・スタンドは一軒、タクシーも一台を滞在期間中に見かけただけで、
村営バスが公共交通機関となっていた。
何よりも村人の多くは、携帯電話は業務用には見かけたが、
これ以外は街中で、携帯電話で私用されている状景は、私として皆無でした。
このような状景を見たり、現地の圧倒的な風光明媚な数多くの景観を観たりすると、
もとより東京都に所属し南下したひとつの島であるが、
まぎれなく夢の島であり、ドリーム・アイランドと私は称したりしました。
そして、旅路の時、宿泊したホテルのスタッフの方のひとりに、
ホテルから港まで、たびたび送迎をして下さった時の言葉を重ねた中のひとつを思いだしたりした次第です。
小笠原の父島は、同じような緯度にある沖縄本島あるが、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、
交通の利便性は、沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であり、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸する。
父島も空港が検討されてきたと知ったが、
空港ができた場合は、少なくとも現在の10倍の観光客は訪れ、島の経済は確かに向上するが、
沖縄本島のリソート地で観光客のにぎわう状況を見れば、
まぎれなくドリーム・アイランドの美麗な情景は、またたくまに失くなる。
父島は客船で25時間半に乗船して、はじめて訪れることのできる稀な島であるので、
数多くの美麗な情景、何よりも素朴な人たちのしぐさ、言葉、さりげない笑顔がある、
と私は確信しながら、ホテルのスタッフの方に言ったりしました。
私はこうした思いがあるので、たとえ世界自然遺産登録されなくとも、
まぎれなくドリーム・アイランドは、島民のひたむきな努力で存在する。
そして、都市で時間に追われ、たえず多忙な勤務を続け、生活する数多くの人たちを思い、
いつの日にか小笠原諸島の父島、母島に訪れて、
過ぎ去る時も忘れるかのようなドリーム・アイランドで心身を癒(いや)しませんか、
と年金生活の私さえ深く感じたりした次第です。
夢逢人さんの旅のスタイルとは全く違う、慌ただしい旅でしたが、なんとか予定どおり旅を終えて帰ってくることができました。
夢逢人さんは島だけでも9泊もされたわけですから、きっと小笠原の良さを満喫されたものと思われます。
私もいつか夢逢人さんのようなゆったり、心身ともに癒されるような旅もしたいと思っていますが、今のところは私の旅のスタイルにこだわりたいとも思っています。
ブログの中で触れることができませんでしたが、今の小笠原の人たちの生活は「おがさわら丸」を中心に回っているようです。それが島人たちにとっても一つのリズムとなっているようでした。
それが、もし空路が開かれると島の人たちの生活もリズムも大きく変わってくると思われますね。
島の人たちにとっては空路開設が悲願だということですが、もしそうなったときには夢逢人さんが心配されるとおり、いかに俗化を防ぎ、ドリームアイランドとしてのクォリティーを維持していくのか、島の人たちも関係者もすべての人たちで考えてほしいものですね。