過日の「北海道内の銅像をめぐるエトセトラ」(5.11)に続いて、まったく別の方から「北の銅像 誕生余話」と題するお話を聴く機会を得た。けっして廉価ではない銅像を後世の方々が建てるためにはいろいろと苦労も多かったようだ。
※ 講師の小沢氏が著した著書です。私は講演後に買い求めました。
少し時間が経ってしまったが、5月26日(金)午後、「札幌彫刻美術館友の会」が主催する講演会がエルプラザで開催されたので参加し、聴講した。
講師は北海道新聞の記者を退職された小沢信行氏が「北の銅像 誕生余話」と題してお話された。小沢氏は北海道新聞社を退職された後、道新文化センターの講師をされていて、その講座の準備のために銅像とかかわったことから銅像に興味を抱き、以来北海道内にある銅像について調べ始めたという。調べてみると、銅像が誕生する裏にはさまざまなエピソードが隠されていることを知り、ついには「こうしてできた北の銅像」という著書まで発刊することになったそうだ。
講座ではそうした銅像の中から何点かを選んでお話された。そのお話の中のいくつかを紹介すると…。
◆スタルヒン像(旭川市 1979年建立 本田明二作)
スタルヒンの出身校・旭川中学で同じ野球部のメンバーで同級生だった西条敏夫氏は、1978(昭和53)年に北海道テレビ放送(HTB)が放送した「あゝスタルヒン物語」という番組を見て、彼のために故郷にせめて小さな記念碑を残したいと決意したという。しかし、建設費予算800万円を集めることは至難の業だったそうだ。西条氏は寝食も忘れて駆け回り寄附を募ったという。当時の800万円がどれほどの高額だったのか計り知れないが、ともかく西条氏をはじめとした関係者の努力が実り、当初は旭川市総合体育館の前庭に、そして今はその名も「スタルヒン球場」と命名されている市営球場の前に移設され、北の球児たちの活躍を見守っているという。
※ 旭川スタルヒン球場の前に立つスタルヒン像です。
◆荻野吟子像(せたな町 1967年建立 本田明二作)
この荻野吟子像もテレビが介在しているというのは興味深い。1964(昭和39)年、NHKのテレビ番組で荻野吟子が日本初の女医だったことが放送された。それを見ていた北海道医師会の会長だった松本剛太郎は驚いたという。松本氏はそれまで女医の第一号は別の人物だと思っていたそうだ。しかも吟子は瀬棚町(現在のせたな町)で開業していたことも知ることとなった。
松本は10年間務めた医師会長を辞めた後に荻野研究に打ち込み、荻野の顕彰碑を建てたいと決意した。そうして、医師会の仲間に広く訴え、地元の協力も得て1967(昭和42)年に無事に除幕式を迎えることができた。完成を見届けた松本氏は半年後に病に倒れ永眠したという。
※ せたな町の公園に建つ荻野吟子を顕彰する碑です。
◆依田勉三像(帯広市 1941年 田嶼碩朗作)
依田勉三像を建設したのは中島武市という事業家である。中島氏は岐阜県の生まれであるが、北海道へ渡ってからいろいろな事業を手掛けて一代で大きく成功した人物である。中島氏が他の事業家と違ったのは蓄財に執着しなかったことだという。郷里には神社参道、仏閣、二宮尊徳像、地元の帯広神社には銅の神馬、帯広・十勝の学校には尊徳像などを惜しげもなく寄付し続けた人物だそうだ。一説には各地に銅像50個を寄付したとも言われているという。
そんな中島氏が「人生上の巻完成記念」として依田勉三像の建設を宣言し、自ら費用を負担し、1941年に像を完成させたという。像が建っている所は中島氏の名を取って「中島公園」となっている。
なお、その中島氏は後世の人たちから敬われ、故郷岐阜県と、帯広市にそれぞれ胸像が建てられたという。そして私たちを驚かせたのが、中島氏の長男・真一郎氏は帯広で開業医となったそうだが、その真一郎氏の長女があのシンガーソングライターの中島みゆきさんだという。講師の小沢氏は、お爺さんは銅像の建設者として名を残し、孫は後世に残る名曲を紡ぎ出していると述べ、講演を閉じた。
※ 戦後になって再建された依田勉三像です。
その他、クロフォード像、土方歳三像、「赤い靴」の少女像、森繁久彌像など銅像についてもお話を伺ったのだが、レポートはこの辺で止めたい。
興味深い小沢氏のお話に触発された私は、小沢氏の著書「こうしてできた北の銅像」を買い求めたのだった。