歴史が浅いといわれる北海道だが、「北海道」と命名されてから150年あまり、それなりに各地に銅像は建てられている。それら銅像について研究をしてこられたマチの研究家から興味深いお話を聞くことができた。
昨日5月11日(木)午後、かでる2・7(北海道立道民活動センター)において北海道生涯学習協会が主催する「学びの広場で学ぼう」講座が開催され参加した。この日のテーマは「北海道における銅像巡り」と題して、観光ボランティアなどで札幌の魅力を伝え続けている武石詔吾氏が講師を務められた。
※ 講師を務められた武石詔吾氏です。
武石氏は銅像を観察することで、人物の足跡や業績を知り、そこから時代を知ることができると体験的に述べられた。そして具体的に個々の銅像について、氏の知見を述べられた。
まず、北海道において初めて銅像が建てられたのは開拓使の次官、長官などを歴任した黒田清隆の像だそうだ。
※ 戦後昭和42年に大通公園に再建された黒田清隆像です。
その他、開拓判官、さらには初代北海道長官を務めた岩井通俊、そしてお雇い外国人のリーダーだったホーレス・ケプロン、札幌農学校初代教頭のウィリアム・クラーク、初代北大総長の佐藤昌介、等々北海道の開拓に功績のあった多士済済の方々の銅像が建てられた。
おーっと忘れていました!「北海道開拓の父」とも称される初代開拓判官の島義勇を忘れてはいけません。武石氏の調べでは明治から戦前に建てられた銅像は26体に上るそうだ。(※ 島義勇像は、戦前には建てられておりません。現存する2体の像は全て戦後に建立されています)
※ 昭和49年に北海道神宮境内に建てられた島義勇像です。
興味深いのは、北海道と特に縁がないと思われる軍人の東郷平八郎と大山岩男の銅像が明治39年に七飯町に建立されたということだ。それも人の背丈の2倍以上もある巨大な銅像だったらしい。なぜそうしたものが七飯町に?と疑問がわくが武石氏はそのことについて多くは語らなかった。
ところで戦前に建立されたこれら数多くの銅像は、戦時の「金属類回収令」によってことごとく解体され供出したそうである。唯一供出を免れたのが中島公園に建てられている木下成太郎という方の銅像だそうだ。
したがって25体は供出の運命となり取り壊されたという。その中から戦後になって再建されたのは、武石氏が提供してくれた資料によると、12体だという。残りの方々は残念ながら再建ということにはならなかったようだ。もちろん東郷平八郎、大山岩男の銅像も再建されることはなかった。
戦後になり、日本が落ち着くにつれて銅像の建てる件数も増えていったが、武石氏の資料によると戦後になってから道内では65体の銅像が建てられたそうだ。
その中で複数の銅像が建てられているのは天才歌人として名を成した石川啄木が、函館市、釧路市、札幌市と3ヵ所に建立されているという。
※ 道内に3体建立された一つ、大通公園に建つ石川啄木像です。
また、北海道名付けの親とも言われる松浦武四郎の銅像も釧路市、小平町、天塩町とこれも3ヵ所に建立されているそうだ。その他複数建てられている人物としては、大友亀太郎、高田屋嘉兵衛、榎本武揚、島義勇、ウィリアム・クラークなどがいるそうである。
武石氏がエピソードを一つ教えてくれた。薩摩藩閥で北海道開発に権勢をふるい、内閣総理大臣まで務めた黒田清隆だったが、出身地の鹿児島での扱いは冷淡ともいえるほどの扱いだそうだ。武石氏が鹿児島を訪れた時に黒田に関するものを目にしたのは、たった一枚の看板だけだったという。反対に、同じく薩摩出身で開拓使麦酒醸造所の設立に奔走した村橋久成(前名:直衛 北海道知事公館前庭に胸像が建てられている)は、鹿児島中央駅前に「若き薩摩の群像」という大立像がど~んと建てられているが、村橋はその一員として銅像となって顕彰されている。(私も鹿児島を訪れた際に目にしている)
銅像として建立されるのは、あくまで後世の方々がその人の業績や人となりを顕彰しようとする行為である。二人の出身地の鹿児島(薩摩)では、北海道とはまた違った評価をされているということなのだろうか…。
今回のお話は武石氏の研究のほんの一端だったようだ。機会があれば、さらに奥の深い銅像のお話を聴いてみたいと思った。
※ 写真はいずれもウェブ上から拝借しました。