蝦夷地探検で名を馳せた松浦武四郎は、当時(江戸末期)の蝦夷地の道なき道を歩み、都合6回もの蝦夷地探検を果たしている。その最後の旅となる1858(安政5)年の6回目の旅では札幌を3泊4日かけて横断している。その最後の旅で「武四郎は何を見たのか?」読み解く講座に参加した。
2月8日(土)午前、札幌市博物館センターにおいてミュージアムトーク「武四郎は何を見たか?」が開講されたので、遠路はるばる駆け付けた。遠路と表現したが、札幌市の博物館センターはもともと私の居宅から近い中央区の北1条西9丁目にあったのだが、現在は豊平区平岸に移転していた。そのために地下鉄を乗り継いで、あまり目立たない住宅街の一角にある引っ越し先に駆け付けたのである。
※ 札幌市豊平区平岸の住宅街の一角に建つ「札幌館活動センター」の建物です。
ミュージアムトークは同博物館センターの古沢仁学芸員が担当された。古沢学芸員は地地質学が専門ということで、武四郎が辿った経路や宿泊地を地質学的に考察するということだったが、武四郎が著した「後方洋蹄日誌」をしっかりと読み込んだうえでのトークであり、古文書にも詳しい方のようであった。
武四郎の蝦夷地探検最後の旅は、「後方洋蹄日誌」によると函館から入り(札幌近辺までは省略して)現在のルスツからルベシベツ峠(現在の中山峠よりは西側にあたるようだ)を超え、ウスベツ川沿いに歩いて豊平川との合流点で定山渓の湯どころを見つけ、そこで一泊している。(1858年3月24日)、その後豊平川沿いを下ったという記述であるが、豊平川の上流河岸は断崖絶壁のところが数か所あり、困難を極めながら進んだそうだ。そして現在の花魁渕の近くのヨコシナイ(現在の真駒内公園内)で2泊目をしている(アイヌの住居)。さらに3泊目は豊平川が札幌市内に入ると当時は幾筋もの流れに分かれていたことから複雑な経路を辿り、コトニ(現在の発寒地区)のアイヌの知り合いの家に宿泊していることが「後方洋蹄日誌」から読み取れるとした。
武四郎の凄いところは、身長わずか4尺8寸(150cm)の小柄な体躯ながら、道なき道を一日に平均10里(40キロ)は軽く歩いたという並外れた健脚の持ち主だったということだ。私など整備された現代の道でも、例え40キロを歩けたとしても、次の日は完全にダウンである。武四郎はそうした旅を何日も続けたというのだから驚愕以外の何物でもない。その精神力たるや、私たち現代人も少しは見習いたいと思うのだが…。
※ センターでは同時にミニ企画展も実施していました。そこに武四郎の実物大の写真がありました。身長150Cm足らずの武四郎の写真です。
ともかくそうして蝦夷地全域を隈なく歩き回った武四郎が最後の探検で得た成果を講師の古沢学芸員は次のようにまとめた。
◇山越新道の開削と温泉経営の進言
◇「在住」と「御手作場」の在り方について進言
◇札幌が陸運と水運が整備されれば交通の要衝となることを進言
◇アイヌへの虐待を公にすることで「場所請負制度」の廃止への契機をつくった。
進言という言葉を多用したが、この時の探検は幕府の役人としての蝦夷地探検だった。
また、武四郎が最後の旅で見たものについても次のようにまとめられた。
◇札幌の原風景
◇アイヌの悲惨な状況
◇大都市となる札幌の未来
紀伊の三重で生まれた武四郎が遠い蝦夷に注目し、困難極める蝦夷地を6度にもわたって探検したことは彼の中に蝦夷地に対する特異なる思い入れがあったに違いない。だから彼は蝦夷地の実状を微に入り細に入り幕府に進言した。しかし、彼の思いがストレートには幕府に伝わらなかったようだ。晩年は全ての役職を辞し、屋号を「馬角斎(ばかくさい)」と称したところに、彼の思いの全てが込められているように思う。毀誉褒貶が激しかった武四郎だったとも聞く、しかし今道産子の我々にとっては、彼が歩き、詳述した日誌の数々は当時の蝦夷地を活写する貴重な資料であったことは間違いない。武四郎の偉業に心より感謝の念を捧げたい。
※ この日、私はいつも手持ちのコンデジを忘れてしまうポカを演じた。仕方なくスマホで撮ったのだが、PCへの取り込みに何度も挑戦したがダメだった。ということで、今回使用の写真は全てウェブ上から拝借した。