ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

群馬県藤岡市郊外にある世界遺産「高山社跡」を見学しました

2014年09月24日 | 旅行
 群馬県藤岡市郊外の高山にある世界遺産「高山社跡」を見学しました。明治初め当時に日本の主要輸出産業であり、ハイテク産業だった養蚕法(ようさんほう)の教育機関として機能した建屋などの遺産です。

 2014年6月21日の第38回世界遺産委員会が世界遺産に登録した「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産の一つとして登録されたのが「高山社跡」です。
 
 現在、遺跡として公開されている高山社跡の入り口の長屋門です。
 

 
 この長屋門では、説明員の方が「高山社跡」を説明する資料などを配布しています。
 
 長屋門のすぐ奥に経つ蚕室建物です。



 2階の屋根部分には空調用の小屋根が設置されています。蚕室建物の特徴です。

 2階の蚕室へに登る階段です。2階の蚕室は立ち入り禁止です。


 
 高山家あるいは高山社(会社組織)は、ここの2階で養蚕事業に励んでいました。

 明治政府は、明治5年10月4日(旧暦、新暦では1872年11月4日)に官営模範器械式工場として富岡製糸場の操業を開始します。当時の日本は養蚕したカイコの繭から生糸(絹糸)をつくっていましたが、手作業のために品質がバラつくことが輸出事業の悩みになっていました。これを解決するために、欧州の当時最新鋭の器械式(機械式)を導入し、生糸品質安定を目指します。

 明治初期は日本の各地で、当時の花形輸出産業だった養蚕に励みます。藤岡市郊外の高山に中世から住み着いていた高山家(戦国時代は地方の豪族)は養蚕事業を始め、苦心します。成功すれば、高収益事業だったようです。

 歴史ある高山家が地方の財力を持つ名家だったことを示す襖(ふすま)です。



 明治6年(1873年)に高山家の名主である高山長五郎は、会社組織の高山社を設立し、養蚕事業に励みます。試行錯誤の末、高山長五郎は「清温育」(せいおんいく)という優れた養蚕飼育法を確立します。

 清温育は暑い時は養蚕部屋の窓(?)を開放し、外気を入れて温度を下げる一方、寒い時は、火鉢によって部屋を暖めたものです。その2階の蚕室火鉢の台(?)です。



 当時はカイコの育成そのものがバラつきが大きかったようです。
 
 「清温育」の養蚕飼育法では、湿度調整のために、火鉢の火力によって空気の流れをつくって換気します。さらに、蚕に新鮮な桑の葉を与たり、カイコの脱皮時の管理法などの品質管理法を確立します。

 「高山社跡」が世界遺産の構成遺産の一つとして登録された理由は、初代高山社の社長だった高山長五郎の跡を継いだ二代目社長の町田菊次郎は高山社蚕業学校の私立甲種高山社蚕業学校を明治34年(1901年)に開校し、日本の蚕業を担う人材を育成し、日本のハイテク技術の普及に努めたことが評価されました。

 蚕室建物をよくみると、1階部分はアルミサッシなどが加えられています。明治当初の建物を維持している訳ではないのです。この理由は、数年前まで高山家の方が実際に住んでいたため、現代風の改善が施されているからです。

 「第38回世界遺産委員会は、この高山社跡が高山社蚕業学校として実際にどう機能したのかを調査した」と、高山社跡の説明員の方が解説します。

 「高山社跡」がある藤岡市郊外の高山は低山に囲まれた行き止まりの地域です。明治初めは桑を育てやすい山深い山里だったことと思います。

 明治初めに当時のハイテク産業を振興しようと苦心した高山長五郎や町田菊次郎などの功績は大きなものがあると感じました。創意工夫と学習意欲が高かった点に感心しました。

長野県立科町の女神湖では、アケボノソウの清楚な花が咲いています

2014年09月23日 | 旅行
 長野県北佐久郡立科町の南側山麓にある女神湖では、秋の気配が濃くなっています。

 北八ヶ岳連山の北側の端にそびえている蓼科山(標高2531メートル)山麓にある女神湖(標高約1500メートル)は、近くの白樺湖や霧ヶ峰高原・車山に比べると、観光客が比較的少なく、割と静かです(観光客は白樺湖や車山に比べると、少ないのですが、もちろんそれなりに来ています)

 女神湖の対岸の森をよく見ると、葉が色づき始めている木々がありました。



 女神湖の奥に見える車山(標高は1925メートル)です。



 車山山麓を回るビーナスラインは土日・休日はやはりまだ混んでいます。

 女神湖の南東側(蓼科山側)にある湿地帯と雑木林は、面積はあまり大きくないのですが、季節の山野草が予想以上に多く咲く穴場的な場所です。

 湖沿いの湿地では、ウメバチソウが小さな白い花を咲かせています。



 よく見ると、ウメバチソウの白い花は湿地帯の草陰のあちこちで咲いています。

 そのウメバチソウの白い花に傍に、アケボノソウが花を咲かせていました。





 霧ヶ峰高原・車山の観光案内のWebサイトでは、9月ごろにアケボノソウが花を咲かせると表示していますが、実際にアケボノソウの花を見たのは今回が初めてでした(9月中旬以降になると、霧ヶ峰高原にあまり足を運ばなくなるからです)。

 アケボノソウの清楚な花は、トレッキングの方々に人気が高く、アケボノソウの清楚な花を見る目的でわざわざ山登りをする方も少なくないそうです。

 女神湖の湿地の草陰には、エゾリンドウ(あるいはオヤマリンドウ)の花が少し咲いています。



 女神湖の湿地のヨシ原からオオヨシキリの鳴き声がいくらかしたのですが、残念ながら姿は見えませんでした。もうすぐ高原から去る時期です。

 女神湖を含めた白樺湖や霧ヶ峰高原・車山地域は、約1カ月前の夏の高原から一足早く、季節が急速に秋に進み、朝晩はかなり冷え込みます。

原田マヤさんの小説「楽園のカンヴァス」を読み終えた話の続きです

2014年09月22日 | 
 原田マヤさんの小説「楽園のカンヴァス」を読み終えた話の続きです。

 2014年7月1日に新潮社が発行した文庫本「楽園のカンヴァス」の表紙を飾るのは、アンリ・ルソーが没した1910年に描いた「The Dream」(夢)と呼ばれる絵画です。アフリカと思われるうっそうとしたジャングルの前にソファーが置かれ、そのソファーの上に裸の女性が横たわっているものです。女性は、ジャングルにいるトリやサル、ゾウ、雄・雌のライオン、ヘビなどの動物たちをじっと見ているそうです(文庫本の帯の裏表紙側にも載っています)。

 小説「楽園のカンヴァス」では、この「The Dream」(夢)と同時期にアンリ・ルソーが描いたと思われる未公開作品の真贋を巡る話です。

 絵画「The Dream」(夢)自身は、米国ニューヨーク市のニューヨーク近代美術館(MoMA)が所有し、展示されています。この絵は、6フィート8インチ×9フィート9インチ(204.5センチメートル×298.5センチメートル)とかなり大きいそうです。



 この絵を見る目的のために、ニューヨーク近代美術館に来場する方も少なくありません。

 ニューヨーク近代美術館には1980年代後半に訪れたことがあり、中学校の美術の教科書に出ていた絵画のいくつかを実際に目にすることができたと感じた記憶があります。

 この時には、アンリ・ルソーの絵画では、1897年に描かれた「眠るジプシー女」が記憶に残りました。



 「The Dream」(夢)を見た記憶はありません。たぶん見てはいるのですが、中学校の美術の教科書には、「眠るジプシー女」が載っていたことが一因のようです。砂漠に横たわっているジプシー女(黒人女性)が着ている中近東風の衣装がとても綺麗に見えた記憶があります。

 その後は、東京都千代田区の竹橋に建つ東京国立近代美術館に行った時に、同美術館が所有する「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神」を見て、とても気に入りました。これは1905年から1906年にかけて描かれた作品です。

 その後に、日本の大学の美術系学科を卒業した方に「ニューヨーク近代美術館などで見たアンリ・ルソーの絵画が印象に残った」と話をすると、その方は「パリの税関職員という素人が日曜画家として描いた作品といわれている」と聞き、素人が書いた絵という評価が下されていることを知りました。

 今回の小説「楽園のカンヴァス」を読み、その中に描かれているアンリ・ルソーの職業の税関職員とは実はかなりの下級職員で、この職業からの薄給だけでは生活が苦しかったそうです。このため、アンリ・ルソーは絵画教室の教師やボンボン菓子を売るアルバイトなどで糊口をしのいでいたとのエピソードが出て来ます。さらに、質素な食事と部屋代をためるなどの貧困生活を送りながら、絵を描くためのカンヴァスと絵の具を買うのがやっとだったと伝えています。

 しかも、アンリ・ルソーは絵を描く生活に専念するために、無謀にも税関職員を辞め、ますます貧乏になります。そして貧乏借家の近くにいるヤドヴィガという婦人が気に入り、勝手に絵のモデルを頼みます。この婦人が「The Dream」(夢)に描かれている女性のモデルです。

 この婦人は、真贋の判定を頼まれた未公開の絵画にも大きく関わっているとの、話の展開になります。そして、パブロ・ピカスの”援助”が大きな役割を果たします(ここが小説の肝なので、中身は明らかにしません)

 今回、小説「楽園のカンヴァス」を読んで、アンリ・ルソーは自分が描きたい絵を好きなように描いていたとの印象を持ちました。絵師としては、生存中にはあまり高い評価が得られず、作品が売れずに貧しい生活を送り、寂しく亡くなりましたが、好きな絵が描けた喜びを感じていたようです。貧しくても、自分の人生を好きなように生きた点が共感を呼びます。

原田マハさんの小説「楽園のカンヴァス」をやっと読み終えました

2014年09月22日 | 
 原田マハさんの小説「楽園のカンヴァス」をやっと読み終えました。久しぶりに、小説らしい、想像をかき立てる面白い物語を読んだと感じました。

 先日、東京都内の大型書店に行った時に、この本の文庫本(2014年7月1日発行、新潮社)が並んでいました。




 小説「楽園のカンヴァス」は、その後に山本周五郎賞を受賞するなどと評判がよかったので、この単行本を購入した記憶があるのですがすが、まだ読んでいないことを思い出しました。整理整頓できていないので、購入した単行本を探し出す自信がないために、文庫本を購入しました。

 単行本「楽園のカンヴァス」は2012年1月1日に新潮社から発行され、書評の評判がいいので、大型書店では目立つように平積みされていた記憶があります。各新聞紙などの書評にも取り上げられていました。
 
 たぶん小説の主人公は、米国のニューヨーク近代美術館(MoMA)の学芸員(キュレーター)のティム・ブラウンです。ハーバード大学大学院で美術史を学んで修了し、ニューヨーク近代美術館に就職したブラウンは、1983年のある夏の日に、スイスのバーゼル市に住む謎の大富豪・美術品収集家のコンラート・バイラーからの“招待状”を受け取ります。バイラーが所有するアンリ・ルソーの未公開の絵を鑑定してほしいとの内容の手紙です。この依頼を受けて、ブラウンはバーゼル市に降り立ちます(実は、ブラウンという姓の人物がもう一人登場します)。

 アンリ・ルソーの未公開の絵の真贋鑑定を頼まれた、もう一人の主人公は現在、岡山県倉敷市の大原美術館に勤務する美術館監視員(絵画研究家)の早川織絵です。1983年当時は、フランスのパリ市にいた彼女も、バーゼル市に向かいます。

 
 ブラウンと早川の二人は、バーゼル市にあるバイラーの大邸宅の一室で、画家アンリ・ルソーが絵を描くエピソードなどを集めた謎の小冊子を読まされます。この謎の小冊子を、一日当たり一章ずつ読むように指定され、7日間かけて読破します。この小冊子を読んで、バイラーが所有するアンリ・ルソーの未公開の絵の真贋を判定してほしいとの依頼です。

 この謎の小冊子の各章には、1906年ごろに作品を発表していた“素朴派”画家のアンリ・ルソーの貧しい日々が描かれています。遠近法も明暗法も習得できなかった日曜画家と揶揄(やゆ)されたアンリ・ルソーが過ごす苦悩の日々が綴られています。ところが、同時代を生きたあのパブロ・ピカスがアンリ・ルソーの作品を、新しい前衛的な作品だと高く評価し、ある支援をします。この小冊子の各章が物語るアンリ・ルソーの日々の物語そのものが、とても面白いのです。

 多くの方が小説「楽園のカンヴァス」は“絵画ミステリー”の部分が面白いと高く評価していますが、ミステリーではないと思います。いくつか出てくる謎は、謎のままで合理的な解釈などを拒否しています。たとえば、早川が新進気鋭の絵画研究家を断念する理由や、アンリ・ルソーの未公開の絵の真贋判定の勝負の時に、早川が事実上自ら権利を放棄する謎はそのままです。小説の物語としては面白いですが、謎は謎のまま残る展開です。

 長くなったので、続きは次回編になります。

埼玉県ときがわ町椚平の急斜面では、シュウカイドウの花が満開です

2014年09月21日 | 季節の移ろい
 埼玉県比企郡ときがわ町の椚平(くぬぎだいら)では、シュウカイドウ(秋海棠)の花が8月下旬から咲き始めます。9月に入ると、シュウカイドウの花は満開になり、多くの人々を楽しませます。

 ときがわ町の中心部から南西方向に向かうと、スギ林の山林を通る山道は幅が次第に狭くなります。椚平に入ると、かなりの勾配を登ります。その急勾配沿いにあるスギ林などの斜面に、シュウカイドウの淡いピンク色の花が満開です。





 シュウカイドウはベゴニア科の多年草だそうです。昔、地元の方がシュウカイドウを植えたところ、野生化し繁殖したそうです。





 シュウカイドウの群生地は椚平の斜面に所々に点在しています。

 現在は、シュウカイドウを咲かせるために、地元の方がスギ林の下草刈りなどの手入れをしているそうです。
 
 椚平では標高が約200メートルから400メートルの急斜面を登る道沿いに、農家が点在しています。いつごろから、この地に住民の先祖が住み着いたのかを聞く機会がありませんでしたが、自動車が普及する以前は、移動が不便な自給自足の地域だったことと思います。

 椚平の急斜面は、滝などが多く、水量豊かに流れています。この水量豊かな地区であることが昔、住民の先祖が住み着いた理由だと感じました。急斜面の畑で何を栽培していたのか、その内にお伺いしてみたいものです。

 椚平の急斜面を下りて、川沿いの平らな地区には、製材所などの林業関係の仕事場が並びます。椚平自身は行き止まりの地区ですが、いくらか西側の地区は秩父市側に抜ける山道が通じています。

 ときがわ町の平地部では、ヒガンバナの花が咲き始めています。



 ときがわ町の平地部では、町の名前にやった都幾川の清流が流れ、両側に田んぼが広がっています。このほかには、コムギなどのムギ類の栽培も盛んなようで、以前からうどんが名産品になっているそうです。