ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

郡上市八幡町には疏水“いがわこみち”が流れています

2010年11月23日 | 旅行
 岐阜県郡上市八幡町は水と踊りの町です。昨日22日の飛騨市古川町の疏水の話に続いて、今回も疏水の話です。
 水の話の前に、まずは郡上八幡の踊りの話から。郡上八幡の有名な郡上おどりは、約400年の歴史を持ち、重要無形民俗文化財に指定されています。今年は7月10日の“発祥祭”から、9月4日の“おどり納め”まで延べ33日にわたって開催されました。特に、8月13日から16日まで開催された「徹夜おどり」では、午後8時から翌朝までと夜通しで踊り明かすそうです。大変なエネルギーです。

 さて、水の話を。郡上市八幡町は長良川の支流の吉田川が流れています。この吉田川に小駄良川(こだらがわ)や乙姫川などが流れ込みます。どの川も清流です。夏は川泳ぎが名物です。また湧き水も豊富です。このため郡上八幡は水の町になっています。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」を実践できる地です。
 
 吉田川に並行して郡上八幡旧庁舎記念館の裏側に、「いがわ小径(こみち)」と呼ばれる疏水が流れています。


 

 鯉を中心にイワナやアマゴ、サツキマス、アユなどの川魚が泳ぐ清流の用水でした。


 鯉の中に大きなイワナが数匹泳いでいて驚きました。

 民家の裏側を流れ、近所の方が洗濯する洗濯場が3カ所あるそうです。近所の方が“洗い場組合”を設け、洗濯物のすすぎ、イモや季節の葉ものを洗うのに利用しているそうです。夏にはスイカが冷やされることもあるようです。

 似たような洗い場は各所にあるとのことです。湧水や山水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽を設け、最初の水槽が飲用や食べ物を洗うのに使われ、次の水槽は汚れた食器などの洗浄と分けて洗います。

 郡上八幡を見下ろす小山の上に郡上八幡城がたっています。その天守閣に登って、街中を見下ろしました。その際に天守閣の脇に立っている松の木にリスがいて、枝から枝に飛び回っていました。そして、モミジの木に、好きな野鳥のヤマガラがいました。一度、天守閣の近くに飛んで来てくれました。落ち葉の晩秋はバードウオッチングの季節です。

江戸時代の面影を残す飛騨市古川町を散策しました

2010年11月22日 | 旅行
 岐阜県飛騨市の古川町は、江戸時代の街並みがよく保存されています。4月下旬ごろ(今年は4月19日と20日)の2日間に豪華絢爛(けんらん)な祭り屋台が9台、町を練り歩く古川祭りが開催されることで有名な町です。
 
 この古川祭りは、有名な高山市の高山祭りの春バージョン(4月中旬ごろ)の「山王祭り」のすぐ後に開催されます。両方の祭りに用いられる祭り屋台は、ほぼ同時期にできたそうです(高山祭りは秋にも八幡祭りが開催されます)。

 岐阜県北部にJR飛騨古川駅の北側には伝統的な木造建築の町屋が並んでいます。散策すると、何か懐かしさを感じさせる街並みです。高山市と異なり、あまり観光ずれしていません。2軒の造り酒屋も、建物と杉玉などが伝統を感じさせます。和ろうそく店もありました。中でも、瀬戸川と呼ばれる疏水の近くには白壁の土蔵が並んでいて、歴史を感じさせます。


 瀬戸川は約400年前に増島城の堀の水を利用して、新田開発を進めるためにつくられた疏水です。一時は生活用水で汚れた時期もあったそうですが、清流化を進め、錦鯉などを放流して美観を保っているそうです。

 大きな錦鯉や鯉が約1000匹放流されています。この日は雨が強く、水面が乱れてうまく撮影できませんでした。。
  

 冬になると、近くの池に放流して越冬させるとのことでした。

 この古川町は飛騨の匠(たくみ)の技術を継承した大工・頭領がいて、伝統的な木造建築の町屋の軒先に“雲”と呼ばれる化粧細工を施しています。雲は神社や仏閣の軒下を飾る細工です。飛騨の匠の技を伝える「飛騨の匠文化館」には、釘や接着剤を使わない、木材同士の継ぎ手の見本が展示してあります。3次元的に巧みに接合する部分はパズルです。

 近くの飛騨まつり会館には、本物の祭り屋台や、模型が展示してあります。屋台祭りの上で展開される有名な“からくり人形”の仕組みが展示してあります。24本の絹糸を操って、人形に舞を踊らせます。

 人形はお面を瞬時にかぶって、扇子などを開いたりする踊りを舞います。






 ヒモによる仕組みは、現在のロープで駆動させるロボットアームの仕組みに通じるものがあります。江戸時代にこの機構を考案した方は、天才と思います。ヒモを引くか緩めるだけの動きで、人形が複雑に動くのはマジックです。天才技術者が、からくり人形の新しい仕掛けの発明を生み出します。からくり人形は、多くの人にからくりの機構を考えさせる契機になったことでしょう。

奥穂高岳を望む西穂高口に行って来ました

2010年11月21日 | 旅行
 標高2156メートルの西穂高口駅に登って、奥穂高岳などの北アルプスの名峰を眺めました。
 西穂高口駅は新穂高ロープウエイの終着点です。駅の周りは既に雪が積もっていてアイスバーンになっています。このため、本格的な登山装備でないと周囲の森林に踏み込めません。西穂高口駅の屋上は見晴らし台です。標高3190メートルの奥穂高岳系の山々がすぐ目の前にせまります。


 今回、乗った新穂高ロープウエイの出発駅は、岐阜県高山市の奥穂高温泉郷の奥にある新穂高温泉駅です。この出発駅でも標高が1117メートルもあります。ロープウエイは途中のしらかば平駅で乗り継ぐため、2回乗ります。第二ロープウエイのゴンドラは2階建てで、上部に50人、下部に70人の合計120人を一度に運びます。第二ロープウエイは、かなりの急傾斜を上がります。ロープウエイの周囲の森は、シラカバに似たダテカンバとシラビソ(アオモリドトマツ)が主役の森林です。晩秋なので、ダテカンバは既に葉を落としています。


 西穂高口駅の屋上の見晴らし台は気温5度(摂氏)で、説明員によると、最近にない大変暖かい日だったそうです。その見晴台からは、奥穂高岳と北穂高岳、槍ヶ岳(標高3180メートル)の周囲の山々、笠ケ岳(標高2898メートル)中心の山々が間近に見えます。

 槍ヶ岳は頂上部が急勾配のため、頂上付近には雪がたまっていません。


 中央部の尖った濃い灰色部分が槍ヶ岳の山頂部です。
 雪がたまらないことから、頂上部の斜度の険しさが見て取れます。周囲の山々の頂上部が雪景色に染まっているのと対照的です。

 少し遠くには、頂上から噴煙を少し上げている焼岳(標高2455メートル)が見えます。この焼岳が噴火した時に梓川をせき止め、大正池をつくりました。このおかげで上高地は観光地になっています。また、富山県側の遠くには白山(標高2702メートル)の上部が霞の上に見えます。このように、西穂高口駅の屋上の見晴らし台からは北アルプスの名峰が見渡せます。

 既に頂上が冠雪している約3000メートル級の山々に囲まれた飛騨や木曽などを見ると、日本の本州の中央部は山岳地帯であるであることを痛感しました。現在は、道路が整備されて簡単に行き来できますが、江戸時代は自分の足で歩くしかなく、大変な移動だったことと思います。この奥穂高温泉郷も以前は秘境だったところだと思います。今は、高山市中心部や富山市まで車で1~2時間程度の距離です。

 夏はロープウエイ途中のしらかば平駅付近は高山植物が咲き乱れるそうです。今度は是非、夏に訪れたいと思いました。 

熊谷うどんに埼玉県小川町で巡り合いました

2010年11月20日 | グルメ
 埼玉県の小川町で“手打ち熊谷うどん”を食べました。コシがとてもあって、つやつやした美味しい手打ちうどんでした。
 土曜日午前中の恒例の関越自動車道での渋滞を避けるために、意識して遅めに出たのですが、渋滞にはまりました。裏道を走るために、嵐山・小川インターチェンジで高速道路を下り、埼玉県の県道を北上しました。ちょうどお昼時だったので、蕎麦屋やうどん屋を探しました。すると、「手打ち熊谷うどん 高見屋」の看板に出会いました。

 農道らしき小道を次々と出てくる看板の指示に従って走ります。小道の周りは桑や野菜畑です。7、8分も走って「本当に店があるのか」と不安になったころに、丘の上に高見屋がありました。この丘は袋小路の奥です。ところが、駐車場は車が7、8台で満車でした。地元の方に混じって、他県ナンバーの車も駐まっています。冬メニューの「冬野菜天ぷらうどん」と「かも汁」を注文しました。

 待ち時間向けの煮物の小鉢が二つ出てきました。田舎風ですが美味しかったです。約30分待って、「冬野菜天ぷらうどん」が出てきました。


 野菜天ぷらはどれも大ぶりです。長ネギに味噌をつけたものや大振りのジャガイモと三つ葉のかき揚げ風などと、どの野菜天ぷらにも何か“仕事”をしてあります。待っている間に見ていると、天ぷらを丁寧に揚げ、かごに飾り付けます。時間がかかる訳です。うどんはつやがあり、とてもコシガあります。冷水でしめたうどんを、暖かい付け汁で食べる仕掛けです。価格は1パイ800円です。

 待っている間にも、お客が次々と入ってきます。「天ぷら系のうどんは約30分待ち」と聞いて、帰って行くお客もいます。駐車場がいっぱいでも辛抱強く待っている車もあれば、引き返して行く車もあります。かなり不便な場所ですが、地元の客を中心にどんどんお客が入ってくるのに驚きました。この袋小路に入ってくるのは、このうどん屋さん目当てです。

 その理由は熊谷うどんが美味しいからです。お店の方に聞くと、熊谷市周辺では、良質の小麦が収穫でき、熊谷市で製粉した中力粉からとても美味しいうどんができるそうです。現在お店で使っている小麦は「あやひかり」という品種だそうです。この小麦粉でうどんを打つと、つるつる感やもちもち感のあるのどごしの良いものになるそうです。 現在でも熊谷市の小麦収穫量は9000トン以上もあり埼玉県ではトップで、全国でも有数な小麦の生産地だそうです。

 高速道路の渋滞のおかげで、偶然、美味しい熊谷うどんに巡り合うことができました。その地の名物・名産を食べることは幸せなことです。

横浜赤レンガ倉庫に行ってきました

2010年11月19日 | 旅行
 来年2011年に、創建100年を迎える横浜の赤レンガ倉庫に行ってきました。お昼時に、少し時間ができたので、関内の横浜市の官庁街から、大桟橋(おおさんばし)に近い赤レンガパークまで行ってみました。片道1.4キロメートルのぶらり散歩でした。お昼時で、赤レンガ倉庫の中のレストランやカフェは観光客などで賑わっていました。修学旅行の学生風の集団も多かったです。

 赤レンガ倉庫がある横浜“新港埠頭(ふとう)”は、明治32年(1899年)につくられ、その上屋施設として二号倉庫が1907年に着工し、1911年に竣工しました。一号倉庫は1908に着工し、1913年に竣工したとのことです(二号が早く建てられた理由は不明です。あるいは番号を後で変えたのかもしれません?)。




 建設後は、葉タバコや羊毛、洋酒、光学機器などの輸入品の保管場所として大いに利用されたそうです。横浜港の海外への窓口として大活躍したようです。このため、二号館の裏側には旧税関事務所があったとのことです。一号館の半面に3基の荷役用エレベーター、二号館に2基のエレベーターが設けられたそうです。日本最古の荷役用エレベーターです。1号館には当時のクレーンも設けられたとのことです。広場には、鉄道のレール跡もあります。現在の桜木町駅付近を経て、日本各地に鉄道車両で運ばれていったそうです。


 この繁栄は1923年9月1日の関東大震災によって一変します。一号倉庫は半壊し、倉庫は縮小されたそうです。もちろん、補強工事を施して再開されました。

 第二次大戦後に米軍が接収した後に、1956年ごろに接収が解除され倉庫として再び利用されました。しかし、近代的な本牧埠頭が台頭し、1989年に倉庫としての役目を終えました。その後、横浜市が1992年に赤レンガ倉庫を国から買収し、安全性などの補強工事を施し、2002年4月に文化・商業施設として再開発したそうです。二号館は、1階の半分と3階がレストランなどの飲食店街です。1階の半分と2階が衣料やアクセサリーなどの個性的なお店です。3階には眺めのいいバルコニーがあるとのことでした。一号館は、3階に音楽や演劇などが楽しめるホールを設けてあります。街おこしの成功例です。

 この横浜赤レンガ倉庫から関内の中心部の官庁街に向かう途中に、横浜市の「キング」など三塔が一望できる場所がありました。海側から見る「キング」(神奈川県庁)と「クイーン」(横浜税関)、「ジャック」(横浜市開港記念会館)は港町ヨコハマを感じさせます。


 クイーンは海側から見た方が美しいと思います。

 黄色く色づいた銀杏並木まで戻ると、約3キロメートル歩いたことになりました。ちょっとしたぶらり旅でした。横浜はもうクリスマスの化粧を始めている感じでした。


 “ぶらタモリ”を実践するには、かなり予習が必要だと思いました。