まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 エレオノーレ

2011-04-30 20:36:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
奇跡をおこした親の愛
フェルディナント1世皇女 エレオノーレ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公グリエルモ妃


1534~1594

エレオノーレはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの六女です。

        
1561年に4歳年下のマントヴァ公グリエルモ1世に嫁いでいます。
27歳ですから決して早くはないですね。

ヨハンナ(十二女)の結婚でフランス王アンリ4世妃
マリー・ド・メディシスの伯母になりました。

お子様は3人おりまして長男のマントヴァ公ヴィンツェンツォ1世は
エレオノーレの姪にあたるエレオノーラ・ディ・メディチと結婚しました。
その公女エレオノーラがフェルディナント2世妃になりました。
次女アンナ・カテリーナは母方の伯父にあたる
前方オーストリア(ティロル)大公フェルディナント2世妃になりました。
その公女アンナは神聖ローマ皇帝マティアス妃になります。
        
アンナ・カテリーナは5歳の時思い病に罹り、命が危なくなったことがあります。
なんの病気かわかりませんが、高熱が続き四肢が膨張したそうです。
この状態が2年ほど続きました。

グリエルモ1世とエレオノーレはとうとう聖マリアに
「アンナ・カテリーナの命が助かったら、その後はマリア様の子として育てます」
という誓いをたてました。

するとどうでしょう! アンナ・カテリーナはみるみる回復いたしました。
その後アンナ・カテリーナはマリア様の子として言い聞かせられ教育をうけました。
アンナ・カテリーナの信心深さはこのようにして培われました。

幼い娘を救ったのは、親の愛か神の力か…いずれにしろ良くなってよかったですね。



                                
そして九女もイタリアへ
フェルディナント1世皇女 バルバラ・フォン・エスターライヒ
フェラーラ公アルフォンソ2世妃


1539~1572

エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの九女です。
七女マルガレーテはハーラー修道院(チロル)の修道女になり
八女ヨハンナは生後11ヶ月で亡くなりました。
バルバラの妹十女ウルスラは2歳で亡くなり、十一女ヘレナはハーラー修道院に入りました。
十二女ヨハンナはトスカーナ大公妃になっています。

バルバラは、マグダレーナ、マルガレーテ、ヘレナ、ヨハンナとともに
インスブルックで厳格な信仰生活を送りました。
そのうち3人は修道院に入っていますから、バルバラやヨハンナも縁談がなければ
同じ道を歩んでいたかもしれません。

バルバラはあまり美しくないという評判でしたが、ちょうどお年頃がよかったのか
いくつかの縁談がありました。

1565年にエステ家のフェラーラ公アルフォンソ2世に嫁ぎました。
アルフォンソ2世の父方の祖母は、あの、ルクレツィア・ボルジアです。

         

この頃ハプスブルク家からはかなりイタリア方面に嫁いでいますね。

当時イタリアではフランスとハプスブルク家が激しく領土争いをおこしていました。
人の国で何やってるんだか…

子だくさんと政略結婚で領土拡大をしてきたハプスブルク家は
イタリアにも同じ戦術を用いようとしていたようです。

1570年と1571年にイタリアでは大地震がおこったようです。
バルバラは両親を亡くした少女たちのために自分の収入を投げ出して
サンタバーバラ女学校( Conservatore delle orfane di Santa Barbara)を建てました。

バルバラはカトリックを信仰していて、イエズス会との親交を暖めていまいたが
プロテスタントの義母レナータ・ディ・フランシア
(ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの王女)とも仲良く過ごしていました。
フランス王女でプロテスタントとは珍しい…

アルフォンソ2世とバルバラの仲は良かったようですが
バルバラは結婚の翌年から病気がちになり、お子様は生まれませんでした。
結核に罹り33歳で亡くなりました。

アルフォンソ2世は7年後、バルバラの姪にあたるマルゲリータと再々婚しました。

あまりエピソードはありませんが、寛容な方だったとお見受けします。
敬虔な教育を受けたおかげですかね?
信心深い人が皆こうだったら宗教戦争みたいなものはおこらなかっただろうに…

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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