学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

不文律を大切に

2008-07-17 | 教育
教育は,つまるところ人と人との関係である。

人と人との関係について,
それを完全に記述することは不可能である。

書かれたその段階で,
すでにバイアスやフィルターが
かかっているし,
意図的な錯誤や虚構が含まれているかもしれない。

書かれたものは決して真実を表さないというのは,
表現行為の宿命でもある。

ここのところ,学校でも,
ミッションやビジョンを記述したり,
PDCAやSWOT分析等の記述を求められることが
多くなった。

学校教育をそのようなものであらわすことは,
確かに目先のかわった面白い試みではあるかもしれないが,
それ以上のものではない。

学校の真実は,
決して書くことのできないところ,
書かれないところにこそ存在するのであって,
その意味で,学校を動かしているのは
不文律である。
それは,学校に集う人の集団が作り出すものでもあるし,
また,学校の歴史が作り出すものでもある。

学校のあれこれを,目新しい方法でいろいろ記述してみて,
その面白さに心奪われ,
学校の真実を見失う愚は避けるべきである。

それよりも,
それぞれの学校のもつ不文の法をこそ謙虚に読み取るべきなのである。

改革の意味

2008-07-17 | 教育
改革というものは,
現体制の部分的な変革によって,
現体制の崩壊や全面的変革を避けるために行われるものである。

つまり,改革が企図されるための必然的な前提とは,
現体制の崩壊や全面的変革の危険性が迫っているということにある。

これを教育改革についてみてみると,
学校教育体制の崩壊や全面的変革の危険性が
客観的にみて迫っているのかどうかを問い直す必要がある。

あたかも重大な危機が迫っているかのような
プロパガンダは多く行われているが,
ほとんどが冷静な議論を経たものではない。

教育改革は,
現体制の問題を取り除き,
新しい体制に変革することによって,
現体制のもつ問題点が解消され,
よりよい教育が行われるかのように
喧伝されるのだが,そこに落とし穴がある。

現体制の問題とされるものが,
問題ではない可能性や,
新しい体制に変革することによって,
新たに問題が発生する可能性については,
巧みにふせられているからである。

教育改革に効果があったかどうかについては,
将来的に検証できる可能性が極めて薄い。

なぜなら,改革の効果が出る前に,
次の改革が企図されるからである。
いつまでも改革をし続けることで,
改革の意味の検証を永遠に避けることができる。

よって,すべての教育改革において,
その意義や効果は,仮説の領域を出ることはない。
しかも,かなり大胆で突飛な仮説であることも多い。

学校にとって必要なのは,
改革ではなく,日常のゆるやかな変化である。
体制を維持しつつ,そのときそのときの
子どもたちの様子によって,
実践の状況をその場その場で変化させていく。
その営みを続けること以外に,
学校をよくする方法などないということに,
そろそろ気づいてもよい頃だと思うのだが。