学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

豊かさを前提としていてよいか

2008-02-03 | 教育
学校の施設は,
貧しく前近代的であるべきであると
このごろ考えるようになった。

なぜなら,現在の豊かな生活を
次の世代も享受できるかどうかが
不確かだからである。

教育の目的が,
次世代を担う子どもたちが
幸せに暮らしていけるように
するためのものであるならば,
「豊かさ」を前提にするべきではないのである。

そうすると,
学校では,
できるだけ人類に普遍的な価値を
貧しい環境のもとで教えるべきだということに
なりはしないだろうか。

パソコン,インターネット,
電子黒板,電卓などなど,
教室のIT化が進行している。
それは,
目新しい便利さや可能性をもっているし,
企業の利益にはなるかもしれないが,
子どもたちの生きる未来の社会の姿が
未知であることを思えば,
もっとプリミティブな
紙と鉛筆と書物を使って行う学習方法を
徹底的に身につけさせたほうが
子どもたちの将来のために
よくはないだろうか。

学校でしか,
こんな原始的なことはやっていないと
言われるぐらいでちょうどよいのではないか。

学力を伸ばすための学校

2008-02-03 | 教育
現在の学校システムは
学力を伸ばすことを目的とはしていない。

学力を最低学力保証の考え方で捉えるならば,
自動車教習所のシステムをとるのが
最も合理的である。

学習の各段階が細かく区切られ,
その目標が細かく定められ,
その目標に到達したかどうかだけが基準となって,
次のステップに進めるシステムである。
卒業の認定も,すべての段階の目標とするレベルに
到達したかどうかだけで判断される。
修学年限は問題とされない。

この自動車教習所方式に,
さらに上級の段階を付け加えていくイメージで
学校システムを構成すれば,
学力を伸ばし,多様な学力を持った生徒に応じた
学習を保証できるのである。

これと比較して,
現在の学校システムを考えてみると,
もともと目標到達が学年進行の条件とはなっていない。
義務教育についても年齢主義が採られているし,
そもそも,学年主義というものが
学力保証とは相容れないものなのである。

目標到達ではなく,
教室という場で,
一定期間学習したという事実が
修了の条件となっているのが現実である。

つまり,学校システムそのものの目的が
学力保証にはもともと置かれていないのである。

学校の目的は,学力保証よりもむしろ
健全な社会生活を送ることのできる国民の育成に
求められている。
そのため,学年や学級は生活集団という趣が強いのである。
そのため,学力がどうあれ,
その集団内に一定の期間所属して生活し,
そこで授業や授業外で学ぶという体験を積んだことで
修了とみなされる傾向が強い。

本来は,
義務教育ではない
高等学校や大学は,
このような生活集団的な学級は必要なく,
高校,大学における単位制は,
学力保証の指標であるべきであるが,
ここにも,
学年主義の影響が有形無形に作用し,
単位取得が必ずしも学力保証になっていないという
現実がある。

むしろ,我が国では,学級というものに
生活集団としての要素を求めてきたのではないか。

公考えてみると,
現在の学校システムを維持したままで,
学校に対して,学力保証を求めることには
無理があることがわかる。

かといって,これまで当然と考えられてきた
生活集団としての学級や学年の機能を
無駄なものとして排除してよいのかどうか,
いったい,学校に何を求めるのか,
このあたりのつきつめた議論が必要ではないだろうか。

漠然と,学力の向上と心の教育の充実の両方を
学校に求めるような雑駁な議論は
時間の無駄だから
もうやめにしたほうがよいのではないか。