是々非々
2008-02-29 | 教育
どうも最近,
学校で好ましからざることが
起こると,
なんでもかんでも
子どもの心に寄り添い,
心のケアで解決しようと
しすぎていないか。
ともすると,
よいことと悪いことが
曖昧になっていはしないか。
よいことはよい,
悪いことは悪いとする
教師の毅然たる態度も
必要ではないのか。
是々非々を教えるのも
学校の重要な役割であろう。
内心忸怩たる思いを抱える
今日この頃である。
学校で好ましからざることが
起こると,
なんでもかんでも
子どもの心に寄り添い,
心のケアで解決しようと
しすぎていないか。
ともすると,
よいことと悪いことが
曖昧になっていはしないか。
よいことはよい,
悪いことは悪いとする
教師の毅然たる態度も
必要ではないのか。
是々非々を教えるのも
学校の重要な役割であろう。
内心忸怩たる思いを抱える
今日この頃である。
>よいことはよい,
悪いことは悪いとする
教師の毅然たる態度
今流行りの「支援」というコトバがこれを拒絶するように思います。
毅然たる態度は、「指導」から生まれてくるものです。
ある先生が「何があっても生徒が全て悪い」と言ってました。(もちろん、常識的に「極端な例」は外して下さいよ。)
大抵の悪しきことは、本人が「日頃の指導や高い教育目標に従わなかった」場合に起こるものです。
それで、「生徒が真に成長する」ことを目的とする場合、コドモが「先生のせいだ」、「親が悪い」、「社会が悪い」など何かの原因を他に求めるより、「自分がバカだった、もっと注意すれば良かった」と思う方が、より大きく成長する場合が多いです。(それなりに年齢に応じたものはあるでしょうが、小さいときからの訓練が必要です。)
要は、今の教育の根本に、生徒自身の成長の能力に対する信頼がないのだと思います。だから、何から何まで先生や親や社会の全てが環境を整えてやることが教育だ、こどもには支援が必要だ、ということになる。もちろん、こんなこと、常識的に考えれば可能なはずないのに。
しかし、悪しきことの原因を他に求める限り、コドモとは基本的に成長できないものではないでしょうか。
(こんなことを言うと、「気持ちを分かってやらないと、可哀想だ」という声がすぐに聞こえてきそうです。まあ、こう考える方が、浅薄なオトナにとっては(オトナの)存在理由証明に好都合な場合が多いんですよね。)
社会の変動がコドモに多大な影響を与えているのは間違いないでしょうが、それでも今の教育における基本の何かは、根本的に間違ってると思います。
最近どうも「指導」というとイメージが悪い。小学校では今の学習指導要領に変わってから「支援」が全面的に謳われて、「指導」を全面に出したような授業は「詰め込み主義」「教え込み」と呼ばれて批判の対象になりがちです。
子どもの自主性を生かすような授業もないわけではありませんが、小学校の授業の80%ぐらいは、基本的なスキルを磨くためのものだと思ってますから、こちらの方が遥かにウェイトは大きいはずなんです。(指導要領がまた変わるので、また流れは変わるかも)
授業がこんな調子だから、当然問題行動に関しても、本人に何が悪かったか考えさせ、反省させるように仕向ける、といった手法が求められます。でも、どこの世界にも勝手な人間はいるもの。いくら言葉で説得しようとしても、かえって増長していくケースすらあります。
この「子どもの心に寄り添い、心のケアで解決」という流れは、やはり「体罰禁止」と密接に結びついているのではないでしょうか。「体罰」という手法を禁じる以上、他の解決手段を提示しなければなりませんから。
実際、体罰禁止のパンフレットにはそういった事例が多く載せられています。でも、現場の人間からすればそれだけで全てが解決しないことも自明なわけで、結局あまり活用されていないのが実情です。
これだけ学校や教師の地位が低下している昨今ですから、教師が毅然とした態度をとるには、何か「武器」が必要になってくるでしょうね。「体罰」がだめなら、外国のように「退学」や「放校」とか。
(例の安倍前首相が推奨するイギリスで実際に取られた手法です。もちろん学校からドロップアウトした若者のことが社会問題化しましたが)
過激と思われるかも知れませんが、学校が学校としての機能を果たすには、それぐらいの権限を持って、親や子どもに「分をわきまえ」てもらわないと、公立学校はもたないのではないかと最近思い始めています。
madographosさんが内心に忸怩たる思いを抱える必要などありませんよ!
現在のmadographosさんの姿勢は間違っていないのですから。その姿勢が変わってしまうことのほうが恐いことです。
良いことは良い,悪いことは悪いとする
教師の毅然とした態度はわたしも必要であると思います。
わたしの考えを述べますのでご参考にしていただけるとうれしいです。
「何があっても生徒が全て悪い」と言い切る先生は、深い教育愛はあるのかもしれませんが、
その様な言葉では、深い教育愛は伝わらないと思います。「何と謙虚さのない、偉そうな教師なんだ」
と思われることでしょう。
いくら愛があっても、その愛が伝わらなければ意味がないことです。私はその様な言葉を吐く教師の愛を信じることはできません。
いくら愛だと言い張っても、その様な愛は本物の愛ではないとみなします。
むしろ、正しくはありませんが「何があっても教師が全て悪い」といえる教師のほうが、
まだましであるといえます。
結局は、実際のケースごとに、個別具体的に判断していくことが最良であると思います!
教師も人間であり、間違ったことをしてしまうことだってあるのですから、
それを謙虚に反省し、今後につなげていくことが大切だと思うのです。
教師も生徒も保護者もお互いに悪い所を謙虚に反省しあい、共に人間として成長していくことが
大切であると確信しています。
私の学生時代は、母校での一部の教師達より、人間的に優れていると感じた同級生が何人もいました。
madographosさんもご自身が生徒だった頃を思い出してみて下さい。
madographosさんの母校での一部の教師達より、人間的に優れていると
感じることができた同級生がいたのではありませんか?
そのような教師たちは「何があっても生徒が全て悪い」などと
間違ったことを偉そうにいうのではなく、
生徒たちから謙虚に学ぶべき部分もあるのではないでしょうか?
「何があっても生徒が全て悪い」といえるのは、完全無欠の教師だけだと思います。
実際には、完璧な教師、完璧な人間といえる者は、
この世に誰一人として存在しないのですから、
「何があっても生徒が全て悪い」という資格のある教師、人間は皆無であると思います。
ちなみに子供は、すべて自分が悪いと考えるのではなく、自分も含めて、
それぞれの悪いところを冷静に判断していくことが、必要であると思います。わたしはそのように子供を教育します。
私も子供を怒る場合は、子供だけではなく、私の悪かったところもしっかりと反省して、怒ります。こどもだからと見下すのではなく、お互いに高めあって生きていく覚悟なのです。
人は、なんでもかんでも自分が100パーセント悪いと、自分で自分を責め続けた場合、
精神的に追い詰められ自殺ということにもつながりかねませんので注意が必要です。
それに一般的に「何があっても生徒(子供)が悪い」というのは、
論理的にもおかしく、筋の通らないことなのですから、やはり不適切だと言わざるを得ません。
教師が悪い場合もいろいろとあるわけで・・。人間ですから。
お互いに反省しあう姿勢が重要であると思います。
教師には謙虚であってほしい。自分が教師であるなら謙虚でありたい。
それが私の願いですね。
私が好きな教師も謙虚な方でした。
madographosさんも・・・
やはり私は、いまも教師にあこがれがあるようです。
ではこれからも頑張ってくださいね!私の分まで(笑)
応援していますから。
確かに過剰に斟酌して生徒を堕落させてしまうのはいけないことですね。
かねあいが難しいところだなと思います。
その線引きのために法律があるのかなと。
つまり、法を犯した場合は、「生徒が悪い」と言っていいのではと思います。
そのためにも教師は、法律に精通する必要があるのではと思う今日この頃です。
法に照らして自信を持って「生徒が悪い」ということもできると思うんです。
明確に線引きできるものとして、私が今思いつくのは法くらいですかな。
私は,「法」は学校教育現場でのいわゆる「指導,しつけ」とはかけ離れているように思います。法のみを拠りどころとするならば,例えば,人の姿かたちだけを見て「いじめ」をする生徒には,そのいじめが何らかの法に抵触する結果となって現れない限り,「いじめをする生徒は何があっても悪い」とは言えなくなりそうです。それは変です。
法は確かに倫理的な側面を持つものがありますが,いわゆる是非・善悪を説くこととはまた違ったところにあるのではないのでしょうか。例えば,刑法の「罪」は,「分別のついた人」に「罰」(財産を没収する,自由を奪う,命を奪うなど)を与えていいほど「悪い」ものでしょう。つまり,「完全に悪い」ことですよね。
中等教育現場では,心情を斟酌することも大切でしょうが,心の成長のためには,「あなたが悪い!」と子どもを叱る場面があって当然ですし,そこに資格なんて必要ないと思います。資格というより,大人の義務だと私は感じています。そういう意味で「何があっても生徒が悪い」といえる教師は必要だと思います。完全無欠な人間でもない限り言ってはいけないという論理にはどうも賛成できかねます。
法に書いてないことだからこそ,教師は振り返って悩んで考えて,「やっぱり言わねばならない」と生徒をご指導されているのではないですか。学校の教師が「法にあるから悪い,法にないから悪いとはいえない」という判断しかしないようならば,むしろ安心して子どもをお任せできないように感じます。