現在の学校システムは
学力を伸ばすことを目的とはしていない。
学力を最低学力保証の考え方で捉えるならば,
自動車教習所のシステムをとるのが
最も合理的である。
学習の各段階が細かく区切られ,
その目標が細かく定められ,
その目標に到達したかどうかだけが基準となって,
次のステップに進めるシステムである。
卒業の認定も,すべての段階の目標とするレベルに
到達したかどうかだけで判断される。
修学年限は問題とされない。
この自動車教習所方式に,
さらに上級の段階を付け加えていくイメージで
学校システムを構成すれば,
学力を伸ばし,多様な学力を持った生徒に応じた
学習を保証できるのである。
これと比較して,
現在の学校システムを考えてみると,
もともと目標到達が学年進行の条件とはなっていない。
義務教育についても年齢主義が採られているし,
そもそも,学年主義というものが
学力保証とは相容れないものなのである。
目標到達ではなく,
教室という場で,
一定期間学習したという事実が
修了の条件となっているのが現実である。
つまり,学校システムそのものの目的が
学力保証にはもともと置かれていないのである。
学校の目的は,学力保証よりもむしろ
健全な社会生活を送ることのできる国民の育成に
求められている。
そのため,学年や学級は生活集団という趣が強いのである。
そのため,学力がどうあれ,
その集団内に一定の期間所属して生活し,
そこで授業や授業外で学ぶという体験を積んだことで
修了とみなされる傾向が強い。
本来は,
義務教育ではない
高等学校や大学は,
このような生活集団的な学級は必要なく,
高校,大学における単位制は,
学力保証の指標であるべきであるが,
ここにも,
学年主義の影響が有形無形に作用し,
単位取得が必ずしも学力保証になっていないという
現実がある。
むしろ,我が国では,学級というものに
生活集団としての要素を求めてきたのではないか。
公考えてみると,
現在の学校システムを維持したままで,
学校に対して,学力保証を求めることには
無理があることがわかる。
かといって,これまで当然と考えられてきた
生活集団としての学級や学年の機能を
無駄なものとして排除してよいのかどうか,
いったい,学校に何を求めるのか,
このあたりのつきつめた議論が必要ではないだろうか。
漠然と,学力の向上と心の教育の充実の両方を
学校に求めるような雑駁な議論は
時間の無駄だから
もうやめにしたほうがよいのではないか。
学力を伸ばすことを目的とはしていない。
学力を最低学力保証の考え方で捉えるならば,
自動車教習所のシステムをとるのが
最も合理的である。
学習の各段階が細かく区切られ,
その目標が細かく定められ,
その目標に到達したかどうかだけが基準となって,
次のステップに進めるシステムである。
卒業の認定も,すべての段階の目標とするレベルに
到達したかどうかだけで判断される。
修学年限は問題とされない。
この自動車教習所方式に,
さらに上級の段階を付け加えていくイメージで
学校システムを構成すれば,
学力を伸ばし,多様な学力を持った生徒に応じた
学習を保証できるのである。
これと比較して,
現在の学校システムを考えてみると,
もともと目標到達が学年進行の条件とはなっていない。
義務教育についても年齢主義が採られているし,
そもそも,学年主義というものが
学力保証とは相容れないものなのである。
目標到達ではなく,
教室という場で,
一定期間学習したという事実が
修了の条件となっているのが現実である。
つまり,学校システムそのものの目的が
学力保証にはもともと置かれていないのである。
学校の目的は,学力保証よりもむしろ
健全な社会生活を送ることのできる国民の育成に
求められている。
そのため,学年や学級は生活集団という趣が強いのである。
そのため,学力がどうあれ,
その集団内に一定の期間所属して生活し,
そこで授業や授業外で学ぶという体験を積んだことで
修了とみなされる傾向が強い。
本来は,
義務教育ではない
高等学校や大学は,
このような生活集団的な学級は必要なく,
高校,大学における単位制は,
学力保証の指標であるべきであるが,
ここにも,
学年主義の影響が有形無形に作用し,
単位取得が必ずしも学力保証になっていないという
現実がある。
むしろ,我が国では,学級というものに
生活集団としての要素を求めてきたのではないか。
公考えてみると,
現在の学校システムを維持したままで,
学校に対して,学力保証を求めることには
無理があることがわかる。
かといって,これまで当然と考えられてきた
生活集団としての学級や学年の機能を
無駄なものとして排除してよいのかどうか,
いったい,学校に何を求めるのか,
このあたりのつきつめた議論が必要ではないだろうか。
漠然と,学力の向上と心の教育の充実の両方を
学校に求めるような雑駁な議論は
時間の無駄だから
もうやめにしたほうがよいのではないか。
この間、様々な記事やコメントを読んできましたが、要するに「中学校が高校の(しかも上位の)入試に合格するだけの学力をつける責任があるかどうか」が問われていると思います。
責任があるのなら本来、もっと教職員を増員し、学力の低い子も高い子も両方面倒見れる体制を整えなければならない。でも現実それは無理だから、次善の策として学習塾と連携するというのが「夜スペ」の考え方でしょう。
責任はないと言ってしまえばそれまでになりますが、最近の親はそれでは納得しないだろうし、公立学校から優秀な生徒がますます減るといった批判にもつながりかねません。「夜スペ」に全面賛成とは言いませんが、向こうにもそれなりのジレンマがあることは理解できます。
とはいえ、やはり「夜スペ」のようなやり方は、学校の限度を超えていると思います。実施主体は学校ではなく地域本部だそうですが、これは批判を逸らすための隠れ蓑にしているというよりは、もうこれ以上教師の負担を増やせないという現実があるのでしょう。
これはとりもなおさず、今の学校組織では学力上位の子どもの成績を上げることまではカバーできないことを示しています。実際の様子をテレビで見ましたが、部活を終えて「夜スペ」に来る生徒に、地域の方が手作りの夕食まで用意しているではありませんか!
これを「学校と地域が連携した模範的な姿」と捉えるのは容易ですが、こんなことが全国の他の地域でも実現可能と言えるでしょうか?「夜スペ」は週3~4日行われるそうですが、こんなことが果たして継続可能なのか極めて疑問に思います。
地域の力を借りることは悪くありませんが、それに100%依存しなければ存続できないシステムというのはやはり問題でしょう。それとも地域本部が主体だから、やろうがやめようが自由ということなのでしょうか?無くなってもいいお祭りイベントとは質がちがうのですから、それではあまりにも無責任と言わざるを得ません。
蛇足ですが、教育再生会議の最終報告に「地域総がかりで」という言葉が何度も出てきます。ですが教育予算を先進国中最低レベルに留めておきながら、こんな都合のいいフレーズを主張されても、「地域に負担を負わせよう」「地域に丸抱えさせよう」と言っているようにしか聞こえないんですよね…。
結局、学校に何もかも期待して役割を負わせすぎている、この一言に尽きると思います。
もしトップエリートを公に養成する必要があると国なり自治体なりが考えるのならば,きちんと公費で行うべきです。今回の「夜スペ」は,私事であるべき受験勉強と,成績上位者へのエリート教育という公的な価値をもつ可能性のある教育の形態を,混同しているところに問題があります。我が国の戦後の学校体系の中では,エリート教育機関の存在が認められていません。例えば,通常の大学は,どの大学も公的な意味では平等であって,どこかの大学に公的な特権が認められているということはありません。我が国の学校制度は,エリート教育を認めていないのです。
私は,このエリート教育を認めない現行の学校制度の理念を貴重なものだと考えていますので,成績上位層への教育などというものが公立学校の中で私の機関である塾の力を借りて行われるという鵺のようなやり方を肯定することはできません。
ただ、何でもかんでも学校の責任にして自らの負担をできるだけ小さくしようとする保護者と、その顔色を気にして何事も引き受けてしまいがちな行政や管理職がいる限り、正論を正論として受け止めてもらえるのか怪しいところです。
「和田中のように学校と地域が連携すれば不可能ではない」、「できないというのは教師側が努力を惜しんでいる証拠」、「やはり民間人校長の方が…云々」
言い分はいろいろ考えられそうです。
責任ある立場にある人に「公立学校にはそこまでする義務はありません!」と断言する勇気はないものでしょうか?
本末転倒、ここまで来ました日本の教育。
「学力を伸ばすための学校」が目的ならば、公立学校も私立学校並みに授業時間を確保すべき。
そうでないならば、夜スペなど必要なし。
「貧乏人は黙って学力低下していろ」とはっきりおっしゃってくだされば分りやすいのですが。
結局お金を出す気のあるものは「救済してやろう」くらいのところでしょうか。
ところで東京都は、教職大学院を卒業した者(創価大学30人など)に優先的に採用枠を与えるそうです。やはりお金持ちさん優先ということでしょうか。
記事にある「自動車教習所」というのは分りやすいです。いわゆる落第ですよね。ここまでできなければ駄目とはっきり目標を定めれば教師もやりやすい部分はあるでしょう。しかし、それでは○○計算に陥りやすい。だからといって、「生きる力」「人間性」という言葉ではあまりに抽象的です。今の状況はああでもない、こうでもないと改革しすぎて何がなんだか分らないという状況でしょう。しかし、とりあえず「入試」という線引きで学力を論じているのが主流です。
可哀想なのはこの改革の中で成長してきた中・高生です。大人の「きれいごと」と「おかねもうけ」の間で行ったり来たり。今の教育制度では、人間性も学力も付けることができてはいないでしょう。なぜなら、切磋琢磨する中で人間性も学力もはぐくまれるはずだからです。学校教育の大切な部分とは、学力も含まれているはずです。
madographosさんの記事にはいつも共感しております。ただ一つ異議を唱えるならば・・・。学力をつけるのは子ども自身の努力。これは間違いありません。でも、どう努力するのか、勉強はどうやるものなのか、その道しるべを与えるのが教師の役割だと思うのです。教科書には電卓マーク。宿題も出さない。ノートも見ない。課題を与えない。褒めない。小学校の低学年からこんな教育を受けてきたら誰も意欲など持たなくなるのです。2002年の改訂で上からの支持でそのような教育がなされたのか、真相は分りません。うちの地域だけのことかもしれません。
ただ、高校受験を目の前にして子どもたちが困っている。これは事実なのです。
これは私の個人的な考えですが、学校システムの目的を
学力保証に置くべきだと思います。
そんな学校で学んでみたかったです。
そんな学校になってほしいです。
心の教育については、
そんなことを、わざわざ学校で教えられなくても
私はこれまで生きてきて、
自然に身についてきたというのが実感しているところです。
学校で心の教育を重視しなくても、それなりの大人になれると思いました。
実際、私の学生時代を通じて、ためになった心の教育というのは
ほとんど皆無であったと思います。
何人か悪い人たちがいて、反面教師として生きてきたくらいです。
なので、ほとんど効果のないような心の教育にへんに力をいれるより、
学力保証を重視すべきだと思ったのです。
そのほうがシンプルでいいです。私好みです。
悪い人たちがいて、
心の教育にはあまり役立たなかった学校ですが、
(反面教師としては役立ちました。社会正義の大切さなどを実感できました。)
基礎学力定着の面では大いに役立ちました。
ちなみに「夜スペは」私も同じく、なんだかなと思います。
madographosさんのお考えに賛同いたします。
受講料が安いということは、結果的に、
官が民を圧迫することにつながるのではと思います。
塾の講師が教えるなら、受講料を塾と同額にすべきです。
成績の良い者しか学べないというのもおかしいです。
希望者は誰でも学べるようにすべきです。
意欲はあるのに学力が低くて学べない人がかわいそうです。
とても不公平な気がします。
皆に平等に機会を与えるべきだと思います。