勉強というのはよく考えてみると,
インプットとアウトプットから成り立っている。
つまり,
聞いたり読んだり見たりしてインプットし,
話したり書いたりしてアウトプットする。
このインプットとアウトプットの
量的質的バランスがよくとれていることが
効果的な学習にとって大切なことではないだろうか。
どうも,教室のなかでインプット偏重になっては
いないか気になっている。
例えば,ワークシートの多用によって,
純粋に自分の力で
はじめ・なか・おわりの整った文章を書くという
アウトプットの機会が減っているのではないか。
また,先生から聞いたことを自分の力でまとめて
ノートに書くというアウトプットの機会が
減っているのではないか。
話すというアウトプットは
盛んであるように思われるが,
論理的に話すというレベルになると
少々心もとない。
インプットとアウトプットの
バランスをとるという観点から,
授業を見直してみると
何か発見があるかもしれない。
インプットとアウトプットから成り立っている。
つまり,
聞いたり読んだり見たりしてインプットし,
話したり書いたりしてアウトプットする。
このインプットとアウトプットの
量的質的バランスがよくとれていることが
効果的な学習にとって大切なことではないだろうか。
どうも,教室のなかでインプット偏重になっては
いないか気になっている。
例えば,ワークシートの多用によって,
純粋に自分の力で
はじめ・なか・おわりの整った文章を書くという
アウトプットの機会が減っているのではないか。
また,先生から聞いたことを自分の力でまとめて
ノートに書くというアウトプットの機会が
減っているのではないか。
話すというアウトプットは
盛んであるように思われるが,
論理的に話すというレベルになると
少々心もとない。
インプットとアウトプットの
バランスをとるという観点から,
授業を見直してみると
何か発見があるかもしれない。
目からウロコです。
同じアウトプットでも、近頃の授業や課題では「自ら行うちょっとしたアウトプット」がなくなっているように感じます。
プリント、ワークシートへの書き込みは「アウトプット」にみえます。確かに、書く内容そのものは「自分の考えたこと」などのアウトプットかもしれません。しかし、「アウトプットの仕方そのもの」(う~ん、表現しにくいなぁ。。)は決して身に付かないように思います。
英語で言うと、「語句の並べ替え」で作文するのと、「和文英訳」で単語から想起して作文するのとの大きな違いみたいな。
「無から有を生じさせる能力」「自分の目の前に『全く存在しないもの』を自分の脳味噌から適切に取り出し、理解可能なように表現する能力」みたいなのが真のアウトプットかなと。
ですから、「授業のメモ」としての機能は同じにみえても、「授業プリントの空白に記入する」のと「真っ新なノートに自分で書く」とでは、もの凄い違いがあると思ってます。「プリントに記入」は、「与えられた道に沿っている」だけで「無から有」にならないからです。
---これを書いていて気が付いたのですが、「ノートに記入する」とは普通言いませんが、ワークシートやプリントには「記入する」と言えます。
「記入」は一種の羅列なのかな。「ノートに記入する」と、後で見直したとき、きっと何が何だか分からなくなりそうです。
このように考察すると、今の生徒の思考法がやたら羅列思考的で体系化能力が低い(と私が感じる)こととの整合性が付きます。
>論理的に話すというレベルになると少々心もとない。
とも関係しそうですね。
>よくまとまったレジュメ
というのは、所詮「他人の脳味噌からの出力」で、「自分の脳味噌からの出力」にならないんですよね。だから、勉強が空虚になる。或いは手段にしかならない。「べんきょうをして何になるのぉ?」「試験にさえ通ればいいだけだ。」
私は「プリントでしか勉強をしてこなかった生徒」が「プリントを作る側」になることは決してできないと思ってます。(ここで言う「プリント」は比喩的な表現でもあります。)なぜなら、「プリントを作る」のは、「無から有」の活動ですから。
今の教育で憂えるのは、こうした「創造性」の最も根っこになるもの、或いは芽になる部分の重要性を、教育をなす側が全く認識できてないことなんですよね。
私が「自分でノートを取れ」と言えば、教員サイドからは「プリントを作るという仕事をさぼっている。」「授業の効率も大事です。」「今の生徒はノートが取れないんだから。」と言う反論や非難が来るでしょう。
生徒側では「面倒くさいことをさせやがって。」「まとめプリントを作ってくれれば楽なのに。」「効率よく勉強ができるのに。自分で作ると間違えて覚えるかもしれないじゃないか」
また両者共から、「時代遅れだ。今は便利なものがたくさんあるのに使わないなんて。」と思われるのがオチです。
まあ、よく言ってることだけど、学校が「生徒が学ぶ場」から「先生が仕事をする場」に成り代わったと言うことです。
自分の子ども時代を振り返ってみれば、ワークシートなどほとんどありませんでしたからね。(コピーや今のような高速印刷などありませんでしたから)当然、先生が黒板に書くことや、教科書の内容を自分なりにレイアウトなど考えてノートに書いていたのでしょう。
ワークシートがこれだけ広まるのは、やはり効率化の面が大きいです。最近の小学生にはワークシートすらまともに記入できない子もいますから。
自分で考えてノートに書け、などと言おうものなら本人にも解読不能なものができあがるのは目に見えています。放課後などに個人指導するにしても、そういう子が3~4人いればもうお手上げでしょうね。
別の理由としてワークシートを使うと「きちんと授業をしてるように見える」というのも大きいです。
逆に言うと、ノートにひたすら書かせていると先生が手を抜いているように親からは見えるというか…。
(ぐちゃぐちゃのノートなら尚更)
私の場合、市販のワークシートをそのまま使うことは少なくて、大抵クラスの実態に合わせて自作することが多いのですが、その苦労が子どものためになっていないとしたら皮肉なことです。
皆さんの仰るように、小学校から無から有を作り出す力を育てていかなければならないのでしょうが、こちらもいろいろな制約の中で授業を進めていかざるをえず、悩ましい問題です。
ワークシートは,思考の枠組を意識させるにはとても有効な手段だと思います。とくに自作のワークシートならば,クラスの実態に応じたものができるので有効性が高いと思いますただ,ワークシートの本来の意味は,ワークシートで身につけた思考の枠組を,ワークシートなしで,いろいろな場合に応用して再現できるところまで到達させることにあると思うのですが,おっしゃっておられるように,ワークシートがあるとよい授業にみえてしまうというところから,多くの場合,ワークシートを完成させるところで終ってしまっている授業を最近多く見受けます。
たしかに,私自身も,純粋に自分で考えさせたものを,丁寧に一人ひとり添削してやってやり直させて,というのを理想としているのですが,なかなか難しいですね。